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プロ25年目の福浦と“同期入団”「プーさん」が抱く夢

2018年5月7日16時0分  スポーツ報知
  • 福嶋明弘打撃投手

 通算2000安打まで残り25本に迫るロッテ・福浦和也内野手(42)。チームには1993年のドラフト7位、プロ25年目を迎えた球界最年長野手と“同期入団”の裏方がいる。福嶋明弘打撃投手(50)だ。180センチ、82キロのがっちりとした体格でコワモテだが、チームでの愛称は「プーさん」。ハチミツ好きなキャラクターに似ているところからきている。

 1985年に埼玉・大宮東高からドラフト3位で近鉄に入団。1軍での登板はないまま、93年に現役を引退した。引退後は関西の球団から打撃投手の契約の誘いが、すぐさま舞い込んだ。「うれしかったよね。条件もよかったし。でも、地元が埼玉だったから関東に帰りたかった」と、オファーに感謝しつつも、丁重に断りを入れた。

 当時はトライアウトもない時代。次の“就職先”を探す手段は電話だった。電話帳を見ながらロッテの球団事務所に電話で直談判をしたところ、球団の担当者からは「入団テストを受けてください」と言われた。「この年でまたテストを受けてくれって言われてもね…。『少し考えさせてください』と返したけど、辞めておこう」と断るつもりでいた。だが、その数十分後、別の担当者から折り返しの電話が鳴った。「是非、ウチでやってください」。こうして“再就職”が決まった。

 翌年の94年にロッテに入団し、気がつけば、50歳。パ・リーグの打撃投手では最年長になっていた。キャンプ中には1日500球以上も投げ続けたこともある。25年間で打者に投げ続けた球数は「50万球以上は投げてるよね」。“裏方のプロ”としてチームを陰で支えてきた。

 運命的な出会いもあった。93年のドラフト7位で加入した福浦と同じタイミングで入団。練習に付き添う中で福浦の苦しんでる顔、喜んでいる顔、色んな姿を誰よりも近くで見てきた。投手で入団した福浦が野手に転向した後、初昇格は4年目の97年7月5日のオリックス戦(千葉マリン)だった。フレーザーから放った初安打も鮮明に覚えている。「1本目は真ん中高めのスライダーだった。(1軍に)上がってきて、すぐに打ったんだよなあ。はっちゃく(福浦のあだ名)は当時は体がガリガリでね。大丈夫なのかなって思って見てた。そしたらその試合の後もポン、ポン打ってね」。初昇格から1軍定着に至った当時を思い返し、懐かしんだ。

 四半世紀、打撃投手として生きてきた福嶋さんには「かなえた夢」と「かなえたい夢」がある。「プロ入り前は3つ夢があってね。1つ目はプロ野球選手になること。2つ目は星野さん(仙一)と一緒に野球をすること。3つ目は日の丸を着けることだった」

 今年の1月に亡くなった星野仙一氏(前楽天球団副会長)とは接点はなかったが、「あの戦う姿勢、男らしい感じが好きだった」とプロ入り後に闘将と呼ばれた男に憧れ、「いつか同じユニホームを着たいな」と思うようになった。

 夢が現実となったのは2008年の北京五輪。日本ラウンドまでの期間だったが、日本代表を指揮した星野監督の下で打撃投手として共に戦った。北京に行く前には、現地に行けない裏方を集めて「ここまでありがとう! お前らの魂を持って戦ってくるぞ!」と、あいさつを受けた。ガッチリと握手を交わすと目頭が熱くなった。この出会い以降、毎年年賀状を交換する間柄になった。それだけに訃報を聞いた時はショックを受けたが、闘将との大切な思い出は、かけがえのない「財産」となった。

 まだまだ現役でいたい理由がある。「はっちゃくの2000安打を目の前で見ることと、東京五輪でもう一回、日の丸を着けたいよね」。2つの「夢」を抱きながら、「プーさん」は右腕を振り続ける。(記者コラム・長井 毅)

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