岩村明憲、引退しても“何苦楚魂”…21年間の現役生活10日にピリオド(その1)

2017年9月9日16時0分  スポーツ報知
  • 引退試合を前に心境を語ったBC福島・岩村明憲内野手兼監督
  • 野村監督を囲む新入団選手(前列左から)副島孔太、小野公誠(後列左から)山崎貴弘、伊藤彰、岩村明憲

 プロ野球・ヤクルト、米大リーグ・レイズで活躍し、現在はルートインBCリーグ・福島ホープスの岩村明憲選手兼任監督(38)が、10日の武蔵戦(ヨーク開成山スタジアム・13時)で21年間の現役生活に幕を引く。ヤクルト時代には主力として日本一に貢献し、3年連続の3割30本塁打もマーク。WBC日本代表として世界一2度、レイズでは1番打者としてチームを球団初のワールドシリーズ進出に導くなど、走攻守に秀でたプレー姿はファンの脳裏に焼き付いている。引退試合を前にした心境、「セカンドステージ」への思いなどを語った。

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 日米を渡り歩いたバットマンが福島で最後の打席に立つ。球団は記念グッズを製作し、ホームページで引退までのカウントダウンを行って、その日を待っている。

 「あれを見ると、俺、死ぬのかなと思うよ(苦笑)。ワクワクより、やっぱり寂しい気持ちの方が大きい。(最後に)期待に応えられるかなって不安もある」

 福島・須賀川市内にある緑に囲まれた「いわせグリーンスタジアム」に元メジャーリーガーはいた。ファンの姿はない。練習を見守る後ろ姿は少し寂しげに見えた。

 「あいさつで何を話そうかと。色々ありすぎて簡潔に話せと言われても無理。涙? 泣かないように頑張るけどね。元々、短命でいい、大きく花を咲かせて早めに散ってもいい、と思っていたが、プロの世界で18年。ここまでできたことには感謝しかない」

 2014年、ヤクルトから戦力外通告された際に引退試合の申し出もあったが、現役続行の道を選んだ。いとも簡単にクビを言い渡されたことへの「何苦楚(なにくそ=何事も、苦しいときが自分の礎(楚)をつくるという意味)」の思いもあった。そんな時に舞い込んだ福島の選手兼任監督の話。楽天時代に東日本大震災を経験したこともあり「復興の力になりたい」とチームを引き受けた。その時から“ケジメ”は模索していた。

 「1年目は“貯金”でやれたけど、去年はできなかった。一番衰えを感じたのは目。ナイターも見えづらくなった。動体視力も。今はまず、監督として選手がいいパフォーマンスを出せる環境を作るのが仕事だと思っているので、自分が代打に出る余裕はないですよ」

 思い出に残るのは、01年ヤクルトでの日本一、レイズ時代の08年、Rソックスを破ったリーグ優勝決定シリーズ第7戦。ただ、最も印象に残るのは、母が亡くなった05年8月26日、横浜(現DeNA)戦で放った2本塁打。母の元へは戻らず、臨んだ試合だった。

 「一番“プロ魂”を出せたかなと思う。(チームに)残ってやります、と強がって言ったけど、100%(の集中力)で試合に入っていたかというと、そうでもなかった。だからこそ自分が打った本塁打じゃない。体が勝手に反応したというか。通夜や葬式に帰らない決断を『お母さんも正解だと思うよ』と結果で教えてくれたのかなと思う。じゃないと説明がつかない。はっきり覚えてるのは試合後『2発いらないから、お母さん返してくれよ』とコメントしたことだけ。墓前には正月に報告をした。『その体でよくやったね』と言ってくれたと思います」

 身長175センチ。決して大柄ではなく故障も多かったが、師と仰ぐ中西太さんから若手時代に教わった「何苦楚魂(なにくそだましい)」で乗り越えてきた。

 「ケガは全力プレーをやってきた証しでもあるし、これが僕の野球人生。感謝するのは宇和島東高校時代の故・上甲正典監督、ヤクルト時代の若松勉監督、中西さん、打撃コーチだった八重樫幸雄さん、先輩の池山隆寛さん。中でも若松監督は厳しかった。本塁打を打っても喜ばれたことはない。『練習では、どのコースでも遊撃手の頭上に打て』『本塁打が打ちたかったら弾丸ライナーで打て』と。04年に30本目を打った時、初めて喜んでくれた。若松さんは父親のような存在。監督になった今、選手に同じ事をやっている」

 守護神を務めていた高津(臣吾・現ヤクルト2軍監督)にも“育てられた”。

 「あの人はエラーした野手を責めなかった。『お前、何やってんだよ』って言われていたら、こうはなってない。そこで腐ってる。ここまで野球人生が続けられたのは、あの人のおかげもある。人並みに守れるようになろう、という所からゴールデングラブ賞6回(受賞)につながっている」(その2に続く)

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