大谷二刀流で改めて注目…解き明かすベーブ・ルースのルーツ 100年前に10勝&10発

スポーツ報知

 開幕から40試合が過ぎたメジャーリーグ。エンゼルスの大谷翔平投手(23)の二刀流の成績は「3勝&6本塁打」。1918年にレッドソックス時代のベーブ・ルースがマークしたメジャー唯一の「2桁勝利&2桁本塁打」に向け、順調に数字を伸ばしている。100年前のルースの記録の足取りを振り返る。(構成・蛭間 豊章)

 メジャー最高のバッターとして名高いベーブ・ルース。彼は剛腕投手としてメジャーに昇格した。17年までの4年間は主に投手だった。その一方で、強打も定評があり、打率2割9分9厘、9本塁打も、時々代打出場はあっても野手として守備に就いた事は一度もなかった。

 メジャー5年目の18年は第1次世界大戦が激化し、選手が不足(既婚者は兵役免除=ルースも既婚)していた。チームはルースの野手出場を考慮し始め、オープン戦初戦は一塁手として出場しいきなり2本塁打を放つなど、パワー満点のバッティングは野球ファンの注目を集めていた。

 しかし、14年ぶりにメジャーへ戻った50歳のE・バロー監督は開幕からピッチング重視の采配でルースを野手として起用していなかったが、5月4日ヤンキース戦で5失点で完投負け。ただ、打席では右翼にどでかいアーチを放った。

 ファンからのルースへの歓声、そして正一塁手ホブリッツェルの不振で指揮官も1日空いて迎えた6日に野手兼任を決断。ルースに「君は頑健で打撃のパワーもある。先発しない時に、守備につく気はないか」と尋ねると、日頃からバッティングに自信を持っていただけに二つ返事だった。

 当時はまだボールが粗悪で、8球団のア・リーグ全体でこの年(18年)は95本塁打しか出なかった。しかし、ルースだけは違った。6日のヤンキース戦に「6番・一塁」で野手として初先発すると2号。翌日は初めて「4番・一塁」に入り、3試合連続アーチを放った。

 それだけではない。9日のセネタース戦では、初めて「4番・投手」として延長10回にサヨナラ負けしたものの5打数5安打、それも3二塁打、1三塁打と投手としては史上初の1試合4長打をマークして関係者を驚かせた。

 5月20日から風邪で喉を痛め10試合欠場したものの、6月に入って再びスパーク。2日、再び「9番・投手」で4号アーチ。3日から3試合続けて「3番・中堅」で出場するとアーチをかけ続け、メジャー初の4戦連続をマークした。

 大谷の投打にわたる活躍でルースも注目されている。今では当時の記録は「13勝&11本塁打」となっているが、実は、幻のアーチも2本あった。7月6日のインディアンス戦。右中間の大飛球で一気に生還しランニング本塁打かと思われたが、三塁打+右翼手の失策となった。その2日後の8日の同じカードのダブルヘッダー第1試合では正真正銘、右翼スタンドに叩き込んだが、場面が両軍無得点の延長10回1死一塁から。当時は“サヨナラの決勝点となる走者が生還した時点でゲームセット”になるために、三塁打と格下げになった。

 7月に入りバロー監督が打席のルースに「待て」の指示を出したが、これを無視して罰金500ドルを言い渡されると、退団して造船所チームとの契約寸前までいくなどもめたが、オーナーが取りなして事無きを得たこともある。

 改心した?ルースは7月4日アスレチックスとのダブルヘッダー第2試合からは何と37試合連続出場。大谷が登板の前後は休養(調整)にしているのとは対照的で、この間、本塁打はなかったものの、マウンドでは6戦連続完投勝利でチームのア・リーグ優勝に大きく貢献した。

 規定打席不足ながら95安打で打率3割をマークしたが、長打が安打の半分以上の48本(二塁打26、三塁打11)。結局、本塁打は6月30日を最後に出ず、7月16日付の紙面では前日の2安打がともに単打だったことで「バッティング・スランプ」とも書き込む新聞もあった。7月以降本塁打0に終わった要因の一つに、第1次大戦がより激化して、使用球がより粗悪になったためとも言われている。

 11本中メジャー通算417勝し、第1回の野球殿堂入り選手にルースらとともに入ったウォルター・ジョンソンから2本。同投手はこの年23勝、326イニングで被本塁打は2本しかなかった右腕だった事からもすごさがわかる。

 例年154試合消化される大リーグだったが、この年は大戦のために最初は7月21日、次いで年間100試合での打ち切り説が飛びだしたが、最終的に労働の日の9月2日で終了。5日からワールドシリーズが史上最速で行われ、ルースはエースとして第1戦1―0完封。第4戦も8回2失点、自ら2点三塁打を放って2勝を挙げ、2年ぶりの世界一の立役者となった。

 ルースは翌年から野手出場が多くなり、二度とこの記録は作れなかったが、引退後自伝で「今だったら大変な酷使で選手会も放っておかないと思うが、当時の私はゲームに出られるだけでよかったんだ」と述懐している。

 【注】インターネットのBaseball Refarence、英雄ベーブ・ルースの内幕(ベースボール・マガジン社)を参考にした。

 ◆今なら年間240本? 1918年、11本塁打だったルースの本塁打率(本塁打1本に要した打数)は29.0、この年メジャー全体で235本塁打しかなく本塁打率は323.6打数に1本となっており、ルースは約11倍の生産率だった。昨季、メジャー最多の59本を打ったスタントン(現ヤンキース)は10.1だったもののメジャー全体でも27.1と高く、約3倍の生産率でしかなかった。もし、昨季ルースがプレーしていてリーグ全体より11倍のペースで本塁打を放つとすると(27.1÷11)で約2.5打数に1本打つことになり、スタントン並みの打数(597)があれば、240本近く打つことになる。

 ◆ベーブ・ルース 1895年、米ボルティモア生まれ。感化院で野球を覚え、左腕投手として1914年Rソックスに昇格、20年1月にヤンキースに移籍し打者に専念。当時の新記録60本塁打した27年、ヤ軍は公式戦で110勝し5年ぶりに世界一になるなど、レ軍時代から通算10度ワールドシリーズに出場し7度優勝。通算15本塁打、投手でも3勝した。34年には日米野球で来日し13本塁打して日本の野球ファンを熱狂させた。35年ブレーブスで引退するまでに714本塁打をマーク。48年に死去した時には、国民的英雄の悲報に弔問のファンが1週間も並んだ。

 ベーブ・ルースの年度別成績(リンク)

 1918年のベーブルース2ケタ勝利&2ケタ本塁打(リンク)

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