【あの時・幻の新球団ライブドア】(1)野村克也をもう一度監督に

2016年1月25日15時8分  スポーツ報知

 2004年、近鉄とオリックスの合併に端を発した球界再編問題。IT関連企業・ライブドアはいち早く「本拠地・仙台」を掲げ、新規参入を宣言しながらも、楽天とのマッチレースに敗れた。12年の歳月を経て、当時の堀江貴文社長ら関係者が狂騒の日々を振り返り、本紙の取材に新事実を証言した。初めて明かされる幻の新球団「ライブドア・フェニックス」の真実とは―。

 密会の舞台は、今はもうない。04年、初秋の夜。赤坂プリンスホテルのスイートルームで、2人の男が言葉を交わしていた。

 野村克也と堀江貴文。

 球界のご意見番たる69歳と、時の人と化した31歳のIT社長。この日が初対面だった。勝てるチームの作り方から、地域密着の重要性に至るまで、意外にも話は弾んだ。

 堀江「2時間くらい、話したのかな。球界の中ではかなりの理論派というか。アタマ、いいですよね。『この人、結構年齢いっているけど、面白いなあ』と」

 球界再編―。激動の夏だった。6月13日、オリックスと近鉄が球団合併合意を発表。1リーグ制移行か、2リーグ制維持か、国民的な議論が巻き起こった。12球団の存続を願うファンの後押しを受け、近鉄買収に名乗りを上げたのが、堀江だった。だがライブドアを近鉄本社は拒絶。ならばと8月19日、新球団の設立構想を発表したばかりだった。

 野村は、シダックスの監督を務めていた。01年オフ、追われるように阪神監督を解任された後、03年から社会人野球に身を投じた。極秘会談はなぜ実現したのか。仕掛人は妻の沙知代だった。

 堀江「独自にものすごいアプローチがありましたから。『とにかく旦那に会ってくれ』って。後はシダックスの会長からも来ていました。『野村さんをまたプロの監督に返り咲かせてくれ』と」

 同席したライブドアベースボール取締役の中野正幾は当時26歳。野村の印象は鮮烈だったと今、語る。

 中野「経営者として戦略思考で組み立て、チームを作っていける方だなと思いました。でもその場で野村さんは一切、『監督になりたい』と言わないんです」

 私はその頃、野村の担当記者だった。新球団からのオファー、あるんじゃないですか? そう問うと決まってこう返された。「絶対ない。こんなジイさん、誰も相手にしてくれないよ」。真相は違った。あったのだ。新球団ライブドアに「野村克也監督」という選択肢は。

 中野「次の日、携帯に沙知代さんから電話がかかってきて。『主人が昨日、楽しかったみたいです。主人、どうしても監督をやりたいって。本当にありがとうございました』と、26歳の小坊主にですよ。沙知代さんは義理人情に厚い方でした」

 初年度から本気で勝ちに行くなら、指揮官は野村。そんな意見も強かったが、正式オファーは見送られた。監督は親しみやすさが重視され、阪神の駐米スカウト、トーマス・オマリーに決まった。

 堀江「フレッシュなイメージでいきたかったから、野村さんのイメージではないと。でも野村さんは、やる気マンマンだったなあ」

 監督人事と並行し、新球団の準備は急ピッチで進行していた。そして、一つの結論に達する。本拠地は、仙台―。(加藤弘士) =敬称略、肩書は当時=

 ◆ノムさんは楽天監督に ライブドアとの新規参入バトルを制した楽天は初年度の05年、田尾安志監督で臨んだが、38勝97敗1分け。06年からは野村克也氏が指揮を執った。創設5年目の09年にはリーグ2位へと躍進。初のCS出場を成し遂げたが、退任を通告された。試合後の「ボヤキ」も人気を集め、野村監督がテレビ出演した時間や、新聞に掲載されたスペースを球団が広告費に換算したところ、年間300億円と算出されるなど、楽天の知名度向上に貢献した。

【あの時・幻の新球団ライブドア】

(1)野村克也をもう一度監督に

(2)「仙台」即決も楽天「後乗り」参戦

(3)「三木谷さん、一緒にやりませんか」

(4)お金なかった…漫喫で資料作成

(5)獲得計画クレメンスは「OK」

あの時
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