「闘将」星野仙一氏、逝く すい臓がん16年7月から極秘闘病

スポーツ報知
14年、退任セレモニーでスポットライト浴びてファンの歓声に応える楽天・星野監督

 元中日投手で、監督として中日、阪神、楽天で指揮を執った星野仙一(ほしの・せんいち)楽天球団副会長が4日午前5時25分、膵臓(すいぞう)がんのため死去した。70歳だった。近親者らで密葬を行い、後日「お別れの会」を開く予定。楽天によると2016年夏にがんであることが判明、昨年末に病状が悪化したという。亡くなる直前まで野球への情熱を燃やし続けた「闘将」の突然の死に、球界は深い悲しみに包まれた。

 マウンドで雄たけびを上げながら打者をねじ伏せた、「燃える男」。鉄拳制裁も辞さない強烈なリーダーシップで、3つのチームを頂点に導いた「闘将」。勝負の世界を熱く生き抜いた星野仙一70年の生涯は、病魔との闘いに無念の“黒星”を喫して幕を閉じた。

 楽天によると、16年7月に急性膵炎を発症したことをきっかけに膵臓がんであることが判明。だが、球団幹部らごく一部の関係者以外には病状を知らせず、球団副会長の仕事を続けながら闘病生活を送っていた。

 昨年11月28日に東京、12月1日に大阪で「野球殿堂入りを祝う会」が開かれた。周囲も開催を心配するほど弱っていたそうで、実際、壇上でいすに座って話す姿もあった。それでもマイクを握る表情は明るく「ずっと野球と恋愛してきて良かった。もっともっと野球に恋をしたい。プロとアマの垣根をなくさなければ、野球界が前に進まない」と、最後のライフワークと位置づけた「青少年への野球振興」に懸ける意気込みを熱く訴えた。

 しかし、「―祝う会」終了後は精根尽き果てたように床に伏せる時間が増えた。親しかった人との電話に「毎日寝てるだけや」と弱々しい声で話していたという。容体は年末になって急激に悪化。例年、知人たちに届く年賀状も、この正月は届かなかった。そして新しい年を迎えた直後の4日早朝、2人の娘や家族らにみとられ、眠るように息を引き取った。

 闘いに明け暮れた野球人生。ドラフト直前に、指名が有力と言われた巨人入団がかなわなかった。そこから「巨人を倒す」ことに全力を注ぎ、74年には中日のエースとして巨人の10連覇を阻んだ。引退後は中日の監督として2度のリーグ制覇。02年には4年連続最下位だった阪神の監督を引き受け、当時、流行語大賞にもなった「勝ちたいんや」の精神で就任2年目で優勝を飾った。楽天監督に就任直後の11年3月には東日本大震災が発生したが、2年後の13年に宿敵・巨人を日本シリーズで倒して日本一となり、被災地を勇気づけた。中日監督時代の97年には、キャンプ直前に妻・扶沙子さんを、阪神監督だった03年の優勝直前には母・敏子さんを亡くしたが、グラウンドに立ち続けた。全て勝利を喜ぶファンのためだった。

 14年限りで監督を勇退した後も、球団副会長として被災地の復興とチーム強化に情熱を燃やし続けた。亡くなる直前まで、「(キャンプの強化方針などを決める)コーチ会議に出られるかな」と話していたという。6日、密葬に参列した立花陽三球団社長は「2018年は優勝することを星野さんと約束してきました」と、5年ぶりのV奪回を誓った。チームにともした熱い炎が消えることはない。闘将は天国から見ている。時には優しい笑顔、そして時には鬼気迫るどなり声を上げながら―。

 ◆星野 仙一(ほしの・せんいち)1947年1月22日、岡山県生まれ。倉敷商―明大に進学しエースとして通算23勝24敗をマーク。68年のドラフト1位で中日入り。6年目の74年に先発、リリーフ兼任で15勝9敗10セーブで中日の20年ぶりリーグ優勝に貢献し沢村賞受賞。82年限りで現役引退。83年から4年間、評論家やNHKスポーツキャスターを歴任。87年に中日の監督に就任。その後、阪神、楽天で監督を務め、史上3人目の3チームでリーグ優勝計4度、2013年には楽天を初の日本一に導いた。14年限りで監督を退き楽天のフロントとして活躍中だった。正力松太郎賞受賞2度、昨年1月にエキスパート部門で野球殿堂入りも果たした。

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