アイク生原夫人が星野さん悼む「出会ったことに感謝」…ド軍に山本昌を派遣するなど交流

スポーツ報知
故・星野仙一氏と親交のあった生原喜美子さん

 1965年に渡米し、92年に亡くなった元ドジャース会長補佐のアイク生原氏の妻・喜美子さんが6日(日本時間7日)、親交のあった星野仙一氏の死去を悼んだ。米ロサンゼルス近郊でスポーツ報知の取材に応じ「アイクの名前が残っているのは星野さんと出会ったから。私たちはすごく感謝しています。星野さんと出会わなかったら、アイクはあそこまで行かなかった」と振り返った。

 アイク生原氏は65年に渡米。ド軍の元オーナーだったピーター・オマリー氏を支え、88年には中日のベロビーチキャンプを実現。当時の中日監督が星野氏だった。星野氏は当時若手だった山本昌を米国へ野球留学させ、左腕はアイク生原氏からスクリューを習得。その勝負球で帰国後にエースとして成長したのは語り草となっている。

 喜美子さんは昨年12月の星野氏の殿堂入りを祝う会に、花と手紙を贈ったという。「(アイク生原氏は)星野さんに憧れてました。男が男にほれる感じでした。(山本昌は)アイクの集大成。星野さんがアイクの努力を日の当たる場所に出してくださった」と感謝の言葉を並べた。

 ―星野仙一氏が日本時間4日に亡くなった。

 「去年の12月15日ぐらいに殿堂入りのお祝いのお花を送りました。ずっとアイクが大切に思っていた星野さんですから。(手紙も)書いたんです。『あなたのお陰で本当になんもない男(アイク生原)が…』と。(アイク生原氏は)プロ野球の星野さんとか長嶋さん、王さんとは違って、(星野氏らと)対等に付き合えるような人ではないから。その時に星野さんが(野球留学で米国へ)送ってきた中の一人が山本昌さん。(アイク生原氏が)その指導を命がけでして、彼(山本昌)がそれにこたえてくれた。そのあたりの喜びというのはすごいですよね。私まで喜んでいます。(山本昌が)真剣にアイクの指導法を受け入れて、そしていい投手として成長していったというのはアイクの集大成ですよね。野球の集大成。そう思っています。(星野氏に手紙を)読んでいただけたかどうか」

 ―アイク生原氏は中日のベロビーチでの春季キャンプでユニホームを着た。

 「中日のユニホーム、日本のプロのユニホームを着せてもらって、アイクは本当に感謝しておりました。何度も何度も言っておりました。星野さんがアイクの努力を日の当たる場所に出してくださった」

 ―星野氏と初めてお会いになったのは?

 「あそこですよねえ。(88年の中日の)ベロビーチのキャンプ地で初めてお会いしました」

 ―どのような印象でしたか?

 「なんか高い部屋から見下ろされている感じというか(笑い)。体格のいい人で、この人きっと偉い人なんだろうなと、すぐに分かりました。じっと見て、『あああんたがアイクの妻か』って感じでした(笑い)。当時まだ若かったと思いますが、やはり貫禄というものがありました。そしてアイクが亡くなった後も私のことを心配してくださった」

 ―お互いにかけがえのない存在、かけがえのない出会いだったのでは?

 「そうですね。あの時の出会いが…。そしてアイクの努力の集大成を世に出していただきました」

 ―アイク生原氏が持っていた星野氏への思いとは。

 「星野さんには憧れていました。長嶋さんとはまた別の感じではあっても、野球人としての憧れはすごかったと思いますよ。格好良くてね。男が男に惚れるまさにそういう感じでした。まさにプロ中のプロでしたね。山本昌さんの関しても、あの頃はコンピューターもないから、ファックスで日ごと日ごとその成績を送ってましたよ。(星野氏の)扶沙子夫人がみんな受け取って返事をまた書いて。ものすごい数ありましたよ。だから星野さんとは山本昌さんを指導するにあたり、いろんなことで交流してましたよ」

 ―アイク生原氏は何か?

 「アイクは星野さんを通じて自分の野球の能力を発揮してくれた、という思いではないでしょうか。結果は(アイク生原氏が)死んでからになってしまいましたが…」

 ―最後に星野さんに一言をお願いします。

 「アイクが今日までこうして名前が残っているのは星野さんと出会ったからだと思います。だから私たちはすごく感謝をしています。星野さんと出会わなかったらアイクはあそこまで行かなかったと思います。一番いい時に出会わせていただいたのだと思います」

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