原辰徳氏、野球殿堂入り「選ばれるとはまだまだ思っていなかった」

スポーツ報知
野球殿堂入りし笑顔を見せる(左から)原辰徳さん、瀧正男さんの長男・克己さん、原辰徳氏、阪神の金本知憲監督、松井秀喜氏の父・松井昌雄さん

 誇らしげに、でも少しだけ照れくさそうに、原辰徳氏(59)は胸を張った。有効投票集の78・7%となる96票を集め、エキスパート表彰部門の候補2年目で受賞を果たした。

 「小さい頃に野球と出会い、野球が大好き。まさか野球殿堂に自分が選ばれるとはまだまだ思っていなかった。プレーヤーとしてはたいした選手ではなかった。選手15年、コーチ、監督として15年、その中で巨人、侍ジャパンで戦うことが出来て、いい成績を収められたことでこういう形になったのかなと思う」

 東海大相模から東海大に進み、80年のドラフトで4球団競合の末、巨人・藤田監督がくじを引き当てた。巨人の4番として歴代4番目の1066試合に出場、チーム4位の382本塁打を記録し、監督して球団3位の947勝を挙げ、12年で7度のリーグ優勝を成し遂げた。すべてはあのドラフトから始まった。

 「22歳で巨人からドラフト指名を受け、その時の藤田監督の手が挙がった瞬間は今でも私の中で生きている。思い出のページをめくると、本当に色々なことが浮かんでくる」

 選手として、そして指導者として、野球勘や勝負勘をたたき込んでくれたのは、14年に他界した、父・貢氏だった。

 「父との出会い、まあ私がおぎゃーと生まれたときから出会っていますが、野球人という部分では高校1年生、東海大相模の門をくぐったと同時に、一番最初の指導者、道しるべ、基本をたたき込んでくれた私の恩師」

 東海大相模高、東海大で親子鷹として戦ったが、父が望んだことではなかった。父が率いた70年の夏の甲子園。小学生だった辰徳少年は「素晴らしい学校がたくさん出場している。将来、ここで野球がやりたいと思う学校があるかもしれないから見るといい」と父に言われ、スタンドから熱視線を送った。東海大相模が見事優勝。大会後、父親に「僕、相模で野球がしたい」と頼み込んだ。

 ここから戦いが始まった。貢氏からは「お前とライバルが同じ力、いや、ライバルの方が少し劣っていても俺は彼を試合で使う」と宣言され、チームメートの誰よりも厳しく指導された。あまりの厳しさに1日だけ練習をさぼったこともあった。仲間からは「お前がかわいそうだ」と同情された。それでも「辰徳、人生は挑戦だ。チャレンジャーの気持ちを忘れるな」とことあるごとに言われ、踏ん張った。

 「高校を終えたとき『お前に対しては厳しくやった。よう頑張った。しかし、厳しくすることでチームの和が保たれる。俺はその信念を持っていた』と言われた。それまでの3年間のつらさが好転して、いい思い出になった」

 貢氏の「挑戦者」の教えは、巨人のそして09年WBCの監督になった時も生きた。巨人では先発だった河原、上原を抑えで起用した。高橋由を1番に座らせたこともある。育成選手の松本哲や山口鉄を成長させ、坂本勇を高卒2年目で開幕に抜てきした。イチロー、城島とメジャーリーガーが顔をそろえたWBCでも、控え組の亀井などを代表に選出。個々の力を見極め、固定観念にとらわれず、タクトを振った。

 「新しいことにチャレンジすることに恐れなかった。チームを率いる上ではまずは勝つこと。それが一番の目的。チームを作る上では実力至上主義であるというこの2点。この2点があればチームの和であり、強さもできあがる」

 緊張とは無縁の野球人生だったが、2度だけ、忘れられない思い出がある。

 「WBC1次ラウンド初戦の韓国戦の試合開始直前に胃が痛くなって『これが胃が痛む、ということなのか』と胃薬を飲んだ。74年、高校1年の夏の甲子園に出場した時もそうだった。入場行進で帽子をしっかりかぶっているんだけど、ふわふわしている感じだった」

 いまでは全てがいい思い出だが「今後も自分の中の野球少年の気持ちは不変。野球界発展のために子供たち、アマチュア、プロという垣根を越えて貢献したという気持ちをより、強めた」と語気を強めた。7月に還暦を迎えるが、老け込むには早過ぎる。原氏にまだ夢の続きがある。

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