真夜中の素振りと大乱闘中の気遣い…衣笠祥雄さん鉄人伝説

スポーツ報知
1970年2月、宿舎で素振りをする衣笠祥雄さん

 プロ野球・広島で活躍した衣笠祥雄さんが23日に上行結腸がんのため71歳で亡くなった。

 国民栄誉賞にも輝いた華々しいキャリアの裏側で、衣笠氏の野球人生は波乱万丈だった。父は米国人。平安高(現龍谷大平安)時代から強肩強打の捕手として注目され、65年に広島に入団した。しかし1年目のキャンプでいきなり右肩痛に襲われ、失意のどん底へ突き落とされていた。挫折から再起、そして栄光へとたどり着く過程には、知られざる壮絶な戦いがあった。

 20歳前。心の空白を埋めるためか、アメ車「フォード・ギャラクシー」を乗り回したり、トランペットを吹き鳴らしたりし、米兵も出入りするジャズバーへ通った。担当スカウトだった木庭教さんから合宿所の6畳一間で諭された。「サチよ、今のままではお前さんは野球で飯を食っていけなくなるぞ。もっと真剣に野球と取り組め」

 故障のため遠投さえできなくなっていた衣笠氏の打撃を生かすため、一塁転向を促したのは当時コーチだった根本陸夫さん。毎日キャッチボールの相手をしながら「1年間、時間をやる。ファームで自分らしさを作ってみろ」と指示を与えた。この一言で衣笠氏は目を覚ます。以後、真夜中の素振りを引退するまで欠かすことはなかった。

 また、若き衣笠氏に技術を徹底的に叩き込んだのが関根潤三、広岡達朗両コーチだ。打撃ですぐに力む衣笠氏に腹を立て、バットで腕を叩いたのが関根コーチ。守備は広岡コーチに鍛えられた。後年、衣笠氏は「コーチに恵まれていたから、レギュラーに定着できた」と感謝している。

 身長175センチながら強靱(きょうじん)な肉体から鉄人と称され、骨がきしむかのようなフルスイングは代名詞となった。勇猛なプレースタイルの傍ら、優れた人間性を語り継ぐエピソードも多い。1979年8月1日の巨人戦(広島)。ここまで1122試合連続試合出場中だったが、西本聖のシュートが左肩を直撃し、大乱闘になった。もみ合いの中で近づいてきた西本に、「けがするぞ。危ないからピッチャーはベンチへ帰ってろ」とうめき声でかばった。

 肩甲骨の亀裂骨折。しかし、翌日の巨人戦には代打で登場、江川の剛速球に豪快な空振りで応えた。試合後、この3球三振を「1球目はファンの、2球目は自分の、3球目は西本君のためにスイングした」と振り返ったエピソードも残されている。当時5年目だった西本の心の傷を埋め、引退まで連続試合出場は続いた。けがを恐れず、視界を保つため、耳当てのないヘルメットをかぶり、思い切り踏み込んでいった。通算1587三振、161死球はその“勲章”だった。

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