不屈の鉄人・衣笠さん死す…病魔と闘いながら26日もテレビ解説志願していた

スポーツ報知
1987年6月13日、世界記録となる2131試合連続出場を達成し、花輪を手に観客の祝福に応える衣笠祥雄さん

 プロ野球記録の2215試合連続出場を果たし、「鉄人」と呼ばれた元広島の衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)氏が23日、上行(じょうこう)結腸がんのため都内の病院で亡くなった。71歳だった。24日に関係者が明らかにし、同日夜に東京都内で通夜が営まれた。1970年から18年間にわたって全試合出場を続けながら、打点王、盗塁王にも輝いた。度重なる死球にも負けず、国民栄誉賞も受賞した不屈の男は、19日のDeNA・巨人戦(横浜)でも病魔と闘いながら、テレビ解説を務めていた。

 数々の偉業を成し遂げた「鉄人」も、病魔には勝てなかった。関係者によると衣笠氏は23日夜、都内の病院で静かに息を引き取った。上行結腸がんで闘病中の身ながら、亡くなる4日前の19日にはBS―TBSの解説者としてDeNA・巨人戦(横浜)でマイクの前にいた。最後の肉声がお茶の間にも届けられていたが、その時も体調を案ずる声が上がっていた。

 試合中、時折声がかすれ、途切れることもあった。聞き取りにくくなる状況にもなり、周囲から心配されたが、中継時間を全うした。実は、当初は衣笠氏ひとりで務める予定だったが、体調がすぐれないということもあり、前日までにBS―TBSが槙原寛己氏に急きょ依頼。2人での解説となった。衣笠氏本人の希望もあり、26日にも同局で解説者として出演する予定だったという。仕事を全うする姿は「鉄人」そのものだった。

 数年前に体調を崩したが、長期入院を経て回復。親しい関係者に「いい薬に巡り合った」と話し、解説の仕事に戻っていた。「この薬がダメなら俺はダメだ」とも語っていた。また無類のワイン好きで、高級ワインをたくさん所蔵していたが、ドクターストップ。「命尽きる時に飲もうと思っている」と話していたという。

 努力の人だった。捕手としてプロ入りしながら、広島入団後に内野手に転向。猛練習で一塁、三塁のポジションを手にすると、同い年でライバルでもあった山本浩二と主軸を張り続けた。2人のアベック本塁打86度は、巨人の長嶋茂雄、王貞治の106度に次ぐ歴代2位。球史に残る名コンビだった。75年のリーグ初優勝を始め、5度のリーグV。79、80年の連続日本一など、広島の黄金期を支えた。

 連続試合出場記録の継続は、故障との戦いでもあった。79年8月1日の巨人戦(広島)では、西本聖から左肩に死球を受け、亀裂骨折でも休まなかった。161死球は清原和博、竹之内雅史に次ぐ歴代3位。足かけ18年、試合に出続け、ルー・ゲーリッグ(元ヤンキース)が持っていた連続試合出場世界記録「2130」を抜いたのは、87年6月13日の中日戦(広島)だった。

 場内には記録達成を祝う中曽根首相(当時)からのメッセージも流れるなど、世間は沸き返った。「まず、私に野球を与えてくれた神様に感謝します」という名言もこの人らしかった。同年には、王貞治さん(77)に次いで球界2人目の国民栄誉賞を受賞。同年に引退後、背番号3は永久欠番になった。9年後、カル・リプケン・ジュニア(オリオールズ)が記録を更新した96年6月14日には、衣笠氏は来賓としてスタジアムに招かれた。

 連続出場ばかりが注目されるが、通算成績も圧巻。安打数2543本はNPB歴代5位タイ、504本塁打は同7位タイ。1448打点は同11位、1372得点は同6位だ。引退後に指導者としてユニホームを着ることはなかったが、記憶にも記録にも残る活躍は、永遠に語り継がれる。

 ◆衣笠 祥雄(きぬがさ・さちお)1947年1月18日、京都市生まれ。捕手として平安高(現龍谷大平安高)3年時の甲子園に春夏連続出場し、ともに8強入り。広島に入団してから内野手に転向。76年に盗塁王、84年に打点王を獲得し、5度のリーグ制覇、3度の日本一に貢献した。87年にルー・ゲーリッグが保持していた2130試合連続出場の世界記録を破り、国民栄誉賞を受賞。同年にプロ野球記録を2215試合に伸ばし、現役を引退した。通算2677試合で打率2割7分、504本塁打、1448打点。MVP(84年)、正力賞(84年)のほか、ベストナイン、ゴールデン・グラブ賞各3回、オールスター出場13回。96年に野球殿堂入り。

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