近藤真彦、新曲はジャニー氏初命名「やっと認めてくれた気がする」

2017年12月2日14時0分  スポーツ報知
  • ~vol・12~

 歌手の近藤真彦(53)が、3日に通算53枚目となるシングル「軌跡」を発売する。タイトルは、デビュー以来初めてジャニー喜多川氏(86)が命名した。「芸能の道とレースの道、二足のわらじで刻んだマッチの深い轍(わだち)の跡…」と込められた思い。一方で、楽曲について「これからまた前に進むぜ、という内容」と近藤。自身の栄光、苦悩の両面の軌跡をたどるとともに、次に見据える2020年のデビュー40周年についても語った。

 自身の軌跡とは―。近藤は、ジャニー氏から贈られた言葉で、改めて37年の芸能生活に考えを巡らせた。音楽活動だけでなく、カーレースの世界でも活躍を続けてきた。

 「よく『大変ですね』って言われるけど、とてもじゃないけど『大変じゃないです』とは言えない。でも、両方とも好きで、贅沢(ぜいたく)っちゃ贅沢に両方の仕事をさせてもらっている。そこは自分の誇りでもある」

 新曲は、当初に願ったジャニー氏に作詞をしてもらうことはかなわなかったが、自身のキャリアの中でも特別な一曲となった。デビュー曲「スニーカーぶる~す」(80年)、代表曲「ギンギラギンにさりげなく」(81年)など、ジャニー氏のアドバイスをもとにタイトルが決まった楽曲はあるが、今回のように命名したのはデビュー以来、初めてだった。

 「『軌跡』というのが返ってきて、『ユー頑張ってきたじゃない。二足のわらじで、そのあなたが走ってきたタイヤの跡を見てもいい時期なんじゃないか』というメッセージかなと思った。いまだに実際に会ったら『ユー、まだレースやってんの?』って言われそうだけど(笑い)。でも、二足のわらじで、ここまでやってこられたというのを、やっと認めてくれたという気がする」

 タイトル通り、軌跡を感じさせる一曲に仕上がった。楽曲は、もともとは外国人が歌うためにストックされていたものだが、自身が幼い頃に憧れた洋楽アイドルの元祖「ベイ・シティ・ローラーズ」を思わせるメロディー。レコーディングスタッフには「ジャニーズ合宿所」時代の先輩の長谷部徹氏がドラム、松原秀樹氏がベースで参加した。

 「2人には35周年のアルバムにも参加してもらった。有名なスタジオミュージシャンになっていたことは知っていたけど、久しぶりどころじゃない。何十年も会ってないわけだから。松原さんなんて、ハゲ上がっちゃってるし、見かけが違う。長谷部さんはさすが元ジャニーズという感じで、相変わらず格好いいんだよね」

 2人と出会ったことで、昔の自分の姿も脳裏によみがえってきた。

 「長谷部さんは覚えていないって言うけど、事務所でドラムのセットを組まされたことがあった。『僕、そんなことさせられたんですよね』って言うと『え、そんなことした?』って。後輩は覚えているもんなんだよね。『金八先生』に出る前の、その当時の寮を思い出しますよ」

 「たのきんトリオ」、そして80年の歌手デビュー後の活躍は誰もが知るところ。レースの世界に足を踏み入れたのは、デビューしてから5年ほどたった84年。人気絶頂の頃だった。

 「ジャニーズ事務所は、もうはなから反対ですよ。認めてもらったというより、多少のご褒美もあったと思う。デビューから5年ぐらい、華やかな幕開けから貢献させてもらえていたし、そういう意味で『好きなことも、ちょっとぐらいさせてあげたら?』ぐらいの話になったんじゃないかな。でも、あまりに入り込んじゃったから『そこまでやるか』ってなったとは思いますけど」

 初代マーチのCMに出演(82年)したことで出会った当時の日産のエースドライバー・星野一義氏に誘われた草レースへの出場が、近藤の気持ちに火をつけた。自信たっぷりに臨んだ結果、30人中最下位に終わった。

 「レース終わったら、おなかが出ちゃってるおじさんとかが車から出てくる。俺、あのおじさんに負けたんだって、すごいショックだった。そこから努力して、いろいろ教えてもらって。結果が出るようになったら、上の排気量にステップアップして、また30位からスタートして」

 94年には仏ル・マン24時間耐久レースに初参戦し、同年には全日本GT選手権で初優勝。その後、F3000にフル参戦。最高峰・F1のスポット参戦の話も出たほど、のめり込んだ。そこに行き着くまでの道のりは平たんではなかった。

 「レース場に行っても、何で昨日『ザ・ベストテン』で歌っていたアイドル歌手が、女の子とマスコミを連れて来てんのって目で見られていたことはあった。実力もないわけでしょ。1位になった人より、俺の方が全部持ってっちゃう。それに対するやっかみ、ひがみというのは、すごくあった」

 努力を重ね、結果を残すことで周囲の雑音をはねのけた。音楽の世界でも、その姿勢で長年、第一線での活躍をつかんだ。デビュー曲でいきなりオリコンチャート1位を獲得し、年間でも3位にランクインした。

 「常にプロを追いかけていた。音楽でも、歌の下手な子供が何でヒット出すんだって声が聞こえてくるじゃない。全然、状況が自分を超えちゃっていたわけだから。それを後から追いかけるしかなかった。音楽も車も。実力を。もっと速く、もっとうまく。演技も早く勉強しなきゃとか、ね」

 勘違いしそうにもなった。だが、いつも横にはジャニー氏がいた。

 「そりゃ、おかしくなるよ。15歳のやんちゃなガキが『あなたが日本一です』って言われたらね。そこでブレーキかけてくれていたのがジャニーさん。『ユーは隣のお兄さん、ユーは隣の友達なんだよ。その友達が、ふんぞり返って、俺はトップだって言ったらダメ。ちゃんとファンの人の近くにいなさい』って。ちょっとでもふんぞり返ると『ユーは、もう3か月で終わり。ユーのアイドルの寿命は3か月』って。3か月たったら『また3か月』と言われた。そのうちに何くそと思って、2曲目はもっと歌をうまくなってやろう、2曲目より3曲目はもっとって。うまいことコントロールされていたわけですよ」

 努力を重ねてきたからこそ、2つの世界をつかんだ。だが、努力だけでもない。

 「プロボクサーが勝った時に『〇〇さん、〇〇さん、ファンの皆さんありがとうございます。会長、お世話になりました』って。こういうのって、あんまり好きじゃないんだけど、でも、俺の今の気持ちも全く同じ。本当にそういう気持ちが強い。周りの人にお礼を言いたい気持ちが強い。これはレース界と芸能界と両方とも。もちろん一人じゃやっていけないんだから。しかも、37年も」

 そんな近藤が、次に見据えるのが、2020年に迎える40周年だ。

 「何か、必ず前に目標を作って、そこに向かって走るのが得意なパターン。常に“ジョギング”で走って、常に少し頑張っているというのは苦手。だから、今回もそう。この歌を出しますってなって、とにかくテレビだラジオだ、雑誌だって詰め込んでやることに何の抵抗もない。でも、じゃあ来年また年が明けてから、またいけるかというと、苦手なパターン」

 2020年は東京五輪イヤーでもある。そこに不思議な縁も感じている。

 「前回の東京五輪は1964年。俺の生まれた年。そのとき、三波春夫さんが東京五輪音頭を歌ったでしょ。俺、同じ誕生日なんだよ。これ、俺に何かやれってことなのかな。日本が一番にぎやかになる時に、俺も一緒に40年を祝うなんて、超ラッキー。(五輪の)協会にいろんな話をもっていかないとダメだし、2年かけて準備しなきゃ(笑い)」(ペン・畑中 祐司)

 ◆近藤 真彦(こんどう・まさひこ)1964年7月19日、神奈川県生まれ。53歳。79年に「たのきんトリオ」としてTBS系ドラマ「3年B組金八先生」に出演し、80年に歌手デビュー。87年に「愚か者」で日本レコード大賞を受賞。84年からドライバーとしてレースに参戦し、2000年に自身のチームを設立。07年に監督として初優勝を飾った。35周年の15年には19年ぶりにNHK紅白歌合戦に出場して白組トリを務めた。173センチ、58キロ。

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