【全盛期知る記者が見た】小室哲哉、“因縁”安室奈美恵とのラスト競演信じる

スポーツ報知
時折、疲れた様な表情をみせる小室哲哉(カメラ・小泉 洋樹)

 音楽プロデューサーの小室哲哉(59)が19日、東京・南青山のエイベックスビルで会見を行い、芸能界を引退することを表明した。18日発売の「週刊文春」で看護師の女性Aさんとの不倫疑惑が報じられた小室は、会見でくも膜下出血で闘病中の妻・KEIKO(45)やファンに謝罪。「僕なりの騒動のけじめとして引退を決意しました」と明かした。1983年に「TM NETWORK」を結成してから35年。プロデュース作品の総売り上げは約1億7000万枚超。一時代を築いた男が、あまりに突然に表舞台から姿を消す。

 歌手・安室奈美恵(40)の引退表明から4か月、育ての親といえる小室哲哉が芸能界から去る決断をした。90年代から2人を間近で取材してきた記者にとっては、なにやら因縁めいたものを感じる。

 小室がTMネットワークの枠から飛び出して音楽プロデューサーとして頭角を現したのは、94年の篠原涼子「恋しさと せつなさと 心強さと」からだった。当時、個人マネジャーとして雇ったのがラジオ局のディレクターで、契約は売り上げの10%ほどと聞いている。その後、ミリオンヒットを連発。マネジャーの年収は1億円を超えたという。

 この頃は今では考えられないほどのCDバブルだった。昨年の音楽市場は3000億円を割っているが、98年は約6000億円を超えていた。ミリオン作品は珍しくなかった。なかでも彼の“打率”は異常なほど高く、メーカーの小室詣では24時間態勢で続いた。

 「1日に1曲ではすまない」ほどの多忙を極め、ロスのスタジオに籠もったりもした。当時、東京・芝にあった彼のスタジオでインタビューしたが、応接間にはF1マシンのレプリカをはじめ珍しい代物が多数置いてあった。珍しかったエベレスト山頂からでもかけられる衛星を利用した携帯電話を見せてもらったことも。新しいモノ好きで子供っぽさを持ち合わせていた。

 ミリオンを連発しても満足することはなかった。小室があこがれ、目指したのは音楽家の坂本龍一(66)だったからだ。日本人初のアカデミー賞で作曲賞を受賞、グラミー賞も手にしている坂本を強く意識していた。96年にメディア王、ルパート・マードックと「TK NEWS」を設立したのも海外進出を目指したから。97年、マイケル・ジャクソンの自宅、ネバーランドに招待を受け楽曲を手渡している。曲はマイケルに採用されなかったが、小室の目は確実に海外に向いていた。

 ただ、急ぎすぎた。98年に香港に音楽プロダクション「ロジャム」を設立した機に輝きを失っていく。小室の周りには金を目当てにしたグループが多くなったようだ。人をすぐに信用してしまう人の良さが裏目に出てしまったのだろう。

 「坂本龍一の次は小室哲哉」―。こちらも当時はそう思っていた。もう少しスタッフに恵まれていたら、急ぎすぎなければ、違った人生になっていただろう。でも曲作りの天才であることには変わりはない。安室のラストツアーで競演を見たいと思っているのは当方だけではないはずだ。復活を信じている。(特別編集委員・国分 敦)

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