MAKIDAI新章 「ZIP!」を卒業、PKCZ(R)の活動を本格化

スポーツ報知
EXILE・MAKIDAI(カメラ・小泉 洋樹)

 日本テレビ系情報番組「ZIP!」(月~金曜・前5時50分)の火曜パーソナリティーを務めていたEXILE MAKIDAI(42)が27日放送で同番組を卒業した。2011年4月の番組スタート時から7年間にわたり出演。「3年、5年と続けていたらここまでになりました」と満足感を漂わせた。

 今後は、DJとして参加している音楽プロデュースチーム・PKCZ(R)の活動を本格化する意向で「この1年は米国で足場を築き、音楽制作につなげたい」と第2章のスタートに意欲を見せた。15年にパフォーマーを卒業したEXILEへの思いやダンス、音楽を熱く語った。

 朝の情報番組への出演は世間的なEXILEのイメージを覆すものだった。本人はどう感じていたのか。

 「自分でも“夜”のイメージだと思っていたから『何で俺?』と。現実的に自分にできるのかとも思いました。でも話を聞くうちにそこで顔が売れたりとか、自分たちの活動を生の声で伝えられるメリットも感じました。会社がぜひという雰囲気もあり(笑い)、できるところまでやろうと。初めは『1年ぐらいじゃないの』という声もあったので、よしっ、3年、5年、もっといけると思ったら、7年になりました」

 初出演の時に試練が待っていた。生本番前に地震速報が流れて頭の中が真っ白になったそうだ。

 「番組スタートは東日本大震災の年の4月、まだ余震が続いている時です。冒頭に時報『5時50分』のコールで始まりますが、その寸前に地震速報が…。初めての生放送が、スタジオ、揺れている状態ですよ。一瞬パニックでしたが『本番いきます』という声を聞いて、自分は伝える側になっているのでやるべきことをやると、逆に腹が決まりました。自分の役割というか心掛けていたのは等身大でしゃべること。知ったかぶりではなく、視聴者の代表として分からないことは『これはどういうことなんですか』と聞く姿勢を持つことでした」

 両親の存在が心の支えになった。番組チェックをした母からアドバイスを受け、16年12月24日に函館からの移動中に遭った交通事故では復活への道筋をつくってくれたという。

 「母は番組が終わったらいつも『今日のあそこはよかったよ』とメールをくれました。それで僕は電話でお礼をね。そうでもしないとこの年ですから話す機会もなくなるんで。そこは番組のおかげですね。それに事故に遭った時、両親が翌日に病院に来てくれました。目に見えない力に背中を押された気がします」

 肋骨(ろっこつ)骨折に肺挫傷という重傷だった。

 「車がコンビニから出た瞬間に、ド~ン―。頭から血が流れ、折れた肋骨が肺に刺さっていて『痛い痛いっ』って。断片的にしか覚えてなくて…。手術台に乗せられ(右の)肺に血がたまって呼吸もできない。肺全体の50%超えると厳しかったみたいで『血を抜かないと死んじゃう』とカテーテルみたいなモノをわきからプスッて刺したら、ドーッて血が流れる音がして、朦朧(もうろう)としながら『助かった』と思いました。いろんな管が体についていた息子の姿に両親はショックを受けたと思います。しばらく居てくれましたが、しゃべれないし水も飲めない。ただ帰京前に、何か一つでも明るいニュースを見せたいと、激痛を承知の上で補助付きの椅子に座ってみました。それを見守ってくれた両親が『兆しが見えたんじゃないか』と。一歩進めたことでリハビリも『できる』と実感できました。もう両親に感謝です」

 今後はPKCZ(R)の活動を本格化する。2月23日に配信された「BOW DOWN」は世界進出第1弾となる作品で、米国に活動拠点を置く予定だ。

 「『BOW―』で憧れだった(米ヒップホップMCの)スヌープ・ドッグさんと共演できました。米国を拠点にすることでいろんなアーティストやクリエイターとも知り合えます。ライブとかよりも、まずは地盤を固めてコミュニティーをつくり、第2弾の世界配信の曲をつくることが軸です。とはいえ、日本で入った仕事もしっかりとこなしていきますよ」

 96年、通っていた大学を中退し、語学留学した。ニューヨークでの体験は今でも強く記憶に残っている。

 「大学3年に進級する前、俺の中ではダンスをやっていて音楽も好きで『今ならまだ違うチャンスがあるんじゃないか』と真剣に両親に訴えました。簡単ではなかったですが、最後は『どうしても気持ちが変わらないなら、経験してきたら』と背中を押してくれました。街は音楽ありダンスありエンターテインメントがあふれていて、いい感覚を得られました。いろんなDJも見ましたね。(レコードの)回し方も常識を覆す方法で、例えばイントロだけとか、サビだけかけてすぐ替えちゃうとか。日本では見られないプレーばかりで、それはもう勉強になりました」

 99年にJ Soul Brothers入りした。声をかけたHIROはかつてのダンスの師匠だった。

 「ZOOを引退したHIROさんがダンスグループで勝負したいと松っちゃん(松本利夫)とUSAに声をかけて、松っちゃんが自分を推してくれました。その時、自分はMISIAさんのバックダンサーをやっていましたが、一度はフロントでと思っていました。HIROさんが『マキダイならグループがうまくいってもDJは続けてできるし、チャンスも広がるから賭けてみない?』と。実は、中目黒のダンススクールで自分が16歳の時、直接HIROさんのレッスンを受けていたので、不思議な縁を感じました」

 SHUNが脱退し、ボーカル・バトルでTAKAHIROが新たにEXILEに加入した。メンバー全員がある思いを持って最終審査を見守っていたそうだ。

 「TAKAHIROが登場した時、明らかにキラッキラでした。候補者それぞれにキャラクターがあるんですが、ちょっと別次元。『この人じゃん。この人逃したらやばいじゃん』。みんな目配せして『だなっ』ていう感じ。逆に歌の時に『外さないでくれ』ってUSAと一緒に思っていました。声に透明感もあり、さらにEXILEのことを本当に好いていてくれて、入った後もリンクしやすかったです」

 15年に松本、USAらとパフォーマーを卒業。そのEXILEの再始動にOBとして思い入れも深い。

 「自分ら3人抜けてからまだライブを1回もやっていない。きっと初ライブの時は(メンバーの)ドキドキ感、半端じゃないですよ。見る方の僕らもドキドキでしょうが…。HIROさんが抜けた時、俺ら真っ先に『ステージ上はずっと絶対に100だな』って。楽曲やメンバーの個性まで知り尽くしている人が向こうから見ているワケですから、かなりプレッシャーでした(笑い)。今回、僕らが向こう側になるんですね。自分らもまだ“やめた感”がふわっとしたままだから、彼らのライブをちゃんと見るまではと思うところもあります。まぁ見たら『OK!』ってなるんでしょうけど。EXILEはこれからもバリバリな感じで、ずっと先頭を走ってほしいです」

 EXILEオリジナルメンバーとしての苦労や挫折、そしてプレッシャー…。全てを背負って次へと駒を進めていく。その背中が後輩の道しるべになるだろう。(ペン・国分 敦)

 ◆中3でダンス披露し大ウケ「可能性感じた」

 ダンスのエネルギーを目の当たりにしたのは中3の時、卒業生を送る会だった。

 「仲のいい5人組で何か派手にやりたいと。それまではバンドブームで卒業生がバンドをやるのが定番でしたが、既にレッスンに通っていたから『ダンスやろうぜ』って。まだブラックカルチャーの知名度もなければ、そんなダンス自体も見る機会がなかった時代です。体育館でしたが、そこで踊った時にドッカーンというものすごい熱量を感じました。先生までも盛り上がったトーンになって『これだ!』とダンスに強烈な可能性を感じました」

 ◆感謝と努力後輩に説く

 LDHを引っ張ってきた先駆者として、後輩に贈る言葉がある。

 「まずは売れるよりもこの世界に入るまでの大変さがある。HIROさんは一度は落ちた経験しているからこそ、EXILEで上がってきた時に『これを止める手はない』と心底思っていたから、立ち止まることはしない。それを僕らに教えてくれています。今のようにやらせてもらうことは当たり前じゃない。本当にラッキーで、いろんな人のおかげということを認識して感謝する。そして次に進むために頑張る。それがHIROさんイズム。これを忘れないでもらいたいですね」

 ◆EXILE MAKIDAI(えぐざいる・まきだい)本名・眞木大輔。1975年10月27日、横浜市生まれ。42歳。中学からダンスを始め94年、MATSU、USAと共にダンスチームBABY NAILを結成。99年にJ Soul Brothersとして始動、2001年にEXILEに。初アルバム「our style」収録曲ではDJ MAKIDAIとしてスクラッチを担当。04年、眞木大輔としてドラマ「ホットマン2」で俳優デビュー。11年から日テレ系「ZIP!」のパーソナリティーを務める。14年にDJ MAKIDAI名義としてPKCZ(R)を結成。身長180センチ、血液型O。

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