【平尾昌晃・生涯青春】(9)作詞家・水島哲氏と出会い「日本の歌も歌いなよ」

2017年2月17日14時0分  スポーツ報知
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 ロカビリーが社会現象になり始めた時期、読売新聞の安倍亮一さんという音楽記者と出会った。日劇によく足を運んでくれて「平尾昌晃がいい」と好意的な記事を書いてくれていた。ある日、マネジャーを通じて「一度じっくり話をしたい」とリクエストがあり、私は下戸だが彼が酒好きということでバーで会った。するといきなり「平尾君、外国曲もいいけど日本の歌も歌いなよ」と水を向けられた。敬(二郎)ちゃんの「ダイアナ」の一件では悔しい思いをしたので、巻き返したい気持ちで耳を傾けた。

 彼は酔いが回ると紙ナプキンにペンを走らせる。何か書きながら「どんな歌が好きなの」と聞いてくる。「西部劇が好き」と答えると「じゃあ、ウエスタンみたいな歌詞を作ればいいね。次に会う日までに書いておくから」と。1か月後に再会すると「星は何んでも知っている」を仕上げていた。タイトルも良かったが2番の木彫りの人形握って眠る―という詞が気に入った。すぐキングのディレクターに「これやりたい」と電話を入れた。それまで私の歌は台詞(せりふ)入りが多く、この作品は100万枚の大ヒットとなった。安倍記者が作詞家・水島哲として世に出た最初の歌だと思う。「星は―」の翌年には「ミヨちゃん」を自ら作詞作曲。これも100万枚のヒットとなった。ロックだけではなく、その後、歌謡曲を手掛けることで作曲家としても幅を広げられることになった。水島さんには「おもいで」も書いていただいたが、この曲が数年後にくすぶっていた私を救う作品になる。

 ロカビリー人気が下火になった昭和37年の春、肺を患い3か月ほど療養した。仕事が終わった後に徹夜でマージャンしてそのままゴルフ―。メチャクチャな生活がたたり、肺に2つ3つ小さな影が映っていたのだ。完治を待たず退院したが「歌手じゃ無理かな」と自信をなくしていた。三田明ら若手歌手にバンドも元気のいいのが出てきたので、そこで浮かんだのが俳優業だ。実際に役者の世界に足を踏み入れると「こんなつらい世界なのか」と痛感した。歌手として映画に出ていたが、しょせん“お客さん”だったのだ。歌手の看板が外れると、いきなり台本を渡され「あさってまでに覚えてこい」となる。やっかみもあったろうが扱いが天と地ほど違った。それでもNET(現テレ朝)「判決」(昭和38年)で主演を務め、上半期のドラマ主演男優賞の候補に挙がったこともあった。歌の才能がなかったら役者を真剣に考えたかもしれないが「役者じゃ飯は食えない」が本音だった。早く撤退したのは正解だったが再び病魔に襲われる。肺にできた影が大きくなっていた。(構成 特別編集委員・国分 敦)

 巨人・内海哲也投手「平尾先生とは昨年11月、ゴールデンスピリット賞の表彰式の場で初めてお会いしました。平尾先生が選考委員を務められていて、僕を選んでいただきました。控室では先生の『必殺仕事人』シリーズのBGMを収録したアルバムまでプレゼントしていただきました。僕自身、『♪パララ~』のトランペットの音で始まる『荒野の果てに』は高校時代に試合の応援で流れていました。10年以上前になりますが、このメロディーを聴くと当時を思い出し、懐かしい気持ちになります」

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平尾昌晃・生涯青春
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