【平尾昌晃・生涯青春】(15)「愛は不死鳥」だけ手に負えなかった

2017年2月25日14時0分  スポーツ報知
  • 平尾昌晃

 昭和42年にレコ大で作曲賞を頂くも43年に入院。44年11月に退院したが「まずはブランクを戻そう」という気持ちで不思議と焦りはなかった。入院中はベッドの上でギターを弾いては曲を書いていたし、天気のいい日は中庭で患者さんらに歌を披露することも度々だった。退院すると渡辺晋・美佐ご夫妻が気を使って「平尾さんも久々に歌いたいでしょう」と復活リサイタルを企画してくれた。

 公演の目玉は新作「愛は不死鳥」だ。作家で作詞家の川内康範先生が「お前は偉い。ロカビリースターになり売れなくなって、今度は病気に立ち向かった。2度の大ピンチを乗り越えこれからが第3の人生。お前は不死鳥だ。詞を書いてやる」。頂いたのが「愛は―」だった。早速曲をつけていくと高い声の部分ができて、歌ってみると音域も広くて声が持たない。闘病前の感覚で作ったのが間違いだった。病み上がりで肺活量が少なく高音でブレスが持たないのも当然だった。「これはマズい。歌えないのは恥ずかしい」と正直焦った。布施君に「悪いけど、これ歌ってくれないかな」とデモテープと一緒に渡すと「分かりました。先生のように歌います」と快諾してくれた。彼が歌う横で初めてタクトを振ったが、36年後にまさかNHK紅白歌合戦で「蛍の光」の指揮をするとは思わなかった。見事に歌いこなしてくれたはいいが「これは布施にぴったり」と彼の曲として発売されてしまったのだ。

 自分の名誉のためにいうと「ミヨちゃん」「星はなんでも知っている」など、これまでの作品は歌えたが「愛は不死鳥」だけが手に負えなかった。リサイタルには西郷輝彦君や(伊東)ゆかりちゃんらが出演してくれた。招待した信州の療養所の先生や看護師さんが見守る中、20曲を歌いまくった。若い時にステージで鍛えた喉はさびついてなく、美佐さんは「これだったらウエスタンカーニバルにも出られるじゃないの」。翌年にはプレスリー人気に便乗し「ロカビリー三人男」のライブや日劇サヨナラ公演にも出演したのだった。

 当時の音楽界は過渡期だった。ロカビリーはロックンロールやR&Bに。外国から反戦歌として入って来たフォークが人気となり、井上陽水や吉田拓郎らが現れた。いろんな音楽がひしめく時代に突入していたが、私の作風も昔とは変化が…。それまではゆかりちゃんや布施君に書いていたポップス系が主体だったが、信州でローカルの良さを体験して「和洋折衷の歌を作りたい」という心境になっていた。メロは日本的な和でリズムは洋楽っぽい4、8ビート―。歌いやすいリズムを意識していた時、出会ったのが小柳ルミ子だ。

 渡邊美佐・渡辺プロダクショングループ代表「平尾さんが入院している時も、離れている感じはあまりしませんでした。事あるごとにウチの社員を病院に行かせていて動静は把握していました。闘病中でも平尾さんは作品をいっぱい書いて、時には看護師さんらに歌を聴かせていたらしいですね。銀座『メイツ』の時もそうだったけど、平尾さんは歌うのが好きだからステージが似合うし、それに上手だからなおさらです。(復活リサイタルは)私自身が元気になった平尾さんが歌う姿を見てみたいというのもあったのかもしれませんね」

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