【アントニオ猪木と村松友視が明かす『アリと猪木のものがたり』〈5〉】力道山が葛藤したプロレスへの偏見と闘った猪木「力道山との出会いは偶然ではなく必然だった」

スポーツ報知
猪木の師匠、力道山

 アントニオ猪木とムハマド・アリが共有した価値観。「アリと猪木のものがたり」を書き下ろした村松友視さんは、時が経過したからこそ見えてきたものがあったと明かす。

 「ボクの中にプロレスに対する差別感があった。ボクシングのすごいチャンピオンがいたとして、それに対してプロレスのスターがいた時に自分がプロレスファンであるのに、黒人の中に白人の価値観が刷り込まれているように、まるでプロレスファンであるのに世間的価値観が刷り込まれている場合がある。その部分と「私、プロレスの味方です」を書いた時にあまり、この猪木対アリの試合についてクッキリとした書き方をできなかったこととは、もしかしたら通じているかもしれない」

 1980年の処女作「私、プロレスの味方です」でプロレス、そして猪木に新たな価値観をたたき付けた村松さん。ただ、アリ戦については、今回の出版まで書くことはできなかった。

 「それは、どっかに自分の頭の中にプロレスを世間の人と同じように見ている部分があったせいだったかもしれない。その後、猪木さんと付き合ってくると、猪木という価値観がボクの中で全然違ってきた。単なるプロレスのヒーローじゃなくて刻々と刻まれた価値観を積み重ねてきているんですね。この猪木の人生をたどり直してみるとまったく違ったものが見えてくる」

 猪木が抱える価値観のひとつを村松さんは「非定住」と評した。

 「猪木さんの側の感性の基盤には非定住があると思う。アリは、もって生まれて背負わされた黒人に生まれ育ったということへの定住感。むしろ黒人の価値観に定住しようという覚悟で白人の価値観に反発していたと思う。猪木は、日本とかブラジルとか軸をどこに置いたらいいか分からないうちにプロレスという虚構と現実が入り交じるような世界に入って生きてきた。これは、猪木が持つ非定住なんです。ひとつの場所、あるいは日本人なら日本人であるという基盤から来る価値観とは違うものを猪木はいっぱい持っている。そして、それが猪木の許容力になっている」

 猪木は、長兄の考えで13歳の時に家族でブラジルへ移住。17歳で力道山にスカウトされ、日本プロレスに入門した。自らの精神性を築く多感な時期に自分の軸が激しく動くことを余儀なくされたことが猪木の礎になっていると看破する。

 「猪木さんは、ブラジルで明日も分からずブラジルを味わえる余裕もなかったかもしれない。その時に力道山に誘われ、これで何とかなる、自分の生まれ持った体と力が生きる世界を見つけた。ところが、それが逆にフィクションみたいな世界だった」

 猪木の「非定住」に絶大な影響力を与えたのが力道山だった。戦後最大のヒーローと呼ばれた力道山。相撲からプロレスへ転向し実業家としても成功を収めた。ただ、当時、北朝鮮の出身という事実は伏せられていた。村松さんは、アリと力道山を重ね合わせた。

 「力道山は相撲を辞めるあたりから、実は国籍の問題が取り沙汰された。これは、アリが最初、アメリカの英雄だと思っていたら、アメリカの一部の黒人のファンの英雄であって、白人の敵だったという構造と似ていて、力道山も日本の英雄だというのは、実はものすごく限られた人たちの間のことだったと思う。少なくとも、インテリ層では、面白い存在が出てきたと思っても、まともに格闘家して力道山を評価していなかった。当時、すごく無邪気な少年と戦後のコンプレックスを抱えた独特の戦後の中年の男たちの心をつかんだということでヒーローになっている。白井義男が世界王者になったときのようなホントに自分たちが分かる価値観の中でヒーローになったわけじゃない。有名にはなったしすごい人なんだけど、価値観を共有して尊敬されてヒーローになった人ではない。それがベースにあって、木村戦でマスコミも力道山から完全に離れた」

 1954年12月22日、蔵前国技館で行われた力道山と柔道日本一の木村政彦との一戦。試合は力道山が張り手を打ち続けKOで破った。あまりの凄惨(せいさん)な内容に新聞は批判した。当時、14歳だった村松さんは、この試合を叔父と蔵前で観戦していた。

 「終わった時の後味の悪さを思い出します。叔父も“力道山もひどいよな、あそこまでやることないのに”って言うぐらいめちゃくちゃにやっつけた。帰る通路で力道山が好きで見に来ている周りの人たちも、それを言いたいんだけど“今の試合はひどいよな”って言っている叔父のような人に言い返せない。それが何なんだろうなっていう不気味なささやきが通路に充満している感じでした」

 木村戦がひとつのきっかけとなり、プロレス「八百長論」がさらに拡大し始めた。猪木の入門は、それから6年後の60年4月。半年後の9月30日に大木金太郎戦でデビューした。まもなく力道山の付け人となる。当時、戦後最大のヒーローは、プロレスが抱える虚像と実像の間で葛藤していた。

 「力道山は、自分が体験した場面から何かを学ぶ能力がすごく長けていた。それと同じようにボクから見ると猪木さんもあらゆる自分の場面から何かをつかんで自分の体に蓄積することに長けている。晩年の力道山の広がりの凄さとダーティーな部分を、間近にいた猪木が何かを学ばないわけはないと思う。これはボクの想像ですが、今の猪木の感性を考えるとそんなふうに思うんですよ」

 力道山の光と影。それは猪木も感じていた。

 「力道山との出会いは偶然より必然という言い方ができると思うんです。ただ、どの世界にもその世界の中にいると見えてしまうものがあります。表と内は違うんです。当時、力道山は力道山なりにプロレスを財団法人にしようとしていました。当時の影響力、人気は大相撲以上でしたから。そういう思いの中で政財界を含めて力道山なりに戦っていた。ただ、年齢の限界もあって若手を育てようとしていた」

 力道山は、ナイトクラブで暴力団員にナイフで刺されたことが原因で63年12月15日、39歳の若さで急死した。晩年の力道山が抱えたプロレスへの偏見との葛藤。世間が突き刺した「プロレスへの差別」が猪木の基盤を京成したのだろうか。猪木に聞いた。

 「プロレスは子供の時に見ていた。ブラジルでスカウトされて今、思えば6か月でデビューしてアマレスやっていたわけじゃなくて、ブラジルで農業やっていた少年がわずか6か月でリングに上がったっていうのは、早かったなと思うんです。その時、馬場さんという人がいて。自分の中ではライバルだとは思っていなかった。ただ、同じ日にデビュー戦で馬場さんは、仲間内で実力は分かりますから、誰がやっても勝てそうな田中米太郎さんが相手だった。オレは、その時、一番強かった大木さんを当てられた。それに不満を持ったわけじゃないけど、やっぱりデビュー戦は勝ちたいという思いがあった。その時、ふっとプロレスっていうものが横切ったんです。純粋にプロレスを思っていたのがだんだん、プロレスの世界にいることでだんだん偏見が分かってくる。そういう意味ではいつも偏見との戦いがあって、今に見てろみたいなものがいつもそこに存在していた。そして、何かを仕掛けることによってオレ自身は起爆剤にしてきた」

 やはり、猪木はプロレスへの偏見と戦っていたのだ。そして、その最大の仕掛けがアリ戦だったのだろう。村松さんが読み解いた。

 「アリ戦をやることによって世の中のしょせん、プロレスっていう偏見を打ち砕こうという野望はあったと思う」

 プロレスへの差別と戦っていた猪木。黒人差別と葛藤していたアリ。交わるはずのない2人が抱えた共通項だった。試合後のリングで村松さんは、思いを共有しているからこそ発生したシーンを見たという。

 「試合が終わった時、2人の対立軸が溶けたシーンがあった。ゴングが鳴って、おざなりの握手をして猪木が引っ込もうと思ったらアリがもう1回、その手を引き寄せて肩をたたいた。そこが溶けた瞬間だと思った。恐らく2人の自覚としてその時、そう思ったんじゃなくて、よく考えたらそうなっていたという無意識の行動だったと思う。恐らくリング上で刻一刻と過ぎる時間の中でだんだん2人の対立軸が溶けていって、バックにそろっているボクシングとかプロレスとかも消えてプライドとプライドがぶつかり合う戦いに変化していったと思うんですね。これは2人が共有したひとつの宿命です。その場面が財産です」

 まったく接点のなかった猪木とアリが溶け合った15ラウンド。41年前には見えなかったドラマには、まだ続きがあった。(続く)

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