【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈1〉月面水爆の誕生】

スポーツ報知
最後のムーンサルトを決める武藤(3月14日、後楽園ホール)

 プロレスラー、武藤敬司(55)が3月30日に都内の病院で両膝の人工関節手術を行った。今後のプロレス人生を続けるために一大決意。一方で1984年10月のデビュー間もないころから繰り出してきた必殺技「ムーンサルトプレス」はドクターストップがかかり完全に封印となった。天才と謳われた武藤は、代名詞とも言えるムーンサルトにどんな思いを込めて戦ってきたのか。「Web報知」では、「武藤敬司、さよならムーンサルトプレス」と題し、月面水爆、さらに両膝のケガと戦い続けてきた武藤のプロレス人生を連載します。第1回は「月面水爆の誕生」。

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 2018年3月14日、後楽園ホール。武藤敬司は、ムーンサルトプレスに別れを告げた。

 かつての教え子たちを従え、対戦した8人タッグマッチ。河野真幸に華麗な舞いをたたき込んだ。

 「昔と比べたら跳躍力もないし、もしかしたら不格好かもしれないけど、気持ちのこもったムーンサルトプレスだったと思います」

 もう2度と繰り出すことのない自身の代名詞へ万感の思いを込めた最後の月面水爆だった。数日後、初めて繰り出した時の記憶を聞いた。

 「初めてやったのがいつかは定かじゃないんだよ」

 ムーンサルトプレスを初めて披露した時の記憶は武藤の中ではおぼろけだった。

 1984年4月、新日本プロレスに入門した。中学時代から柔道を始め、山梨県の富士河口湖高校では国体に出場。卒業後は、東北柔道専門学校に進み、全日本の強化指定選手にも選ばれる実力者だった。そんな時、知人の紹介で新日本への入門を勧められた。

 柔道で五輪を目指す野望もあったが「元来の目立とう精神があったからね」と決断。21歳で新日本の門を叩いた。同期は蝶野正洋、橋本真也、船木優治(現・誠勝)、野上彰(現・AKIRA)ら後のプロレス界を支える逸材が揃っていた。

 デビューは同年10月5日、埼玉・越谷市体育館。相手は同じく初陣となった蝶野正洋だった。試合は逆エビ固めで勝利した。ムーンサルトへのイメージは、この直後から抱いていたという。小学校の時からバック転は難なくできた。

 「試合しながら、“あっ、もしかしたら、トップロープの上から、こんなことできるんじゃないかな”っていうイメージはどっかに持っていたんですよ。あそこからバック転したらどうなるんだろうっていう感じでね」

 初めて披露した時は、ひらめきだったという。

 「試合の中で突然、やったんですよ。ぶっつけ本番。こういうことができるだろうって想像はしていたから、それでやったっていう感じでしたよ」

 武藤によると、正確には覚えていないが初のムーンサルトはデビュー間もないころの地方のタッグマッチだったという。

 「最初に使った時はフィニッシュホールドでも何でもないからね。試合の途中の経過で出した」

 今回の連載にあたり、過去の新聞記事、専門誌を調べたが、正確な日付と場所は特定できなかった。もしかすると、報道陣も取材に行っていなかった地方の会場だったかもしれない。ムーンサルトプレスの誕生は、それほどまでに武藤の中で突然、生まれたひらめきだったとも言える。あれから、34年。ハッキリと覚えている記憶はある。

 「お客さんが盛り上がってね。その感覚だけは、すげぇ覚えている。今まで背が高くてヘビー級であんな技をやった選手は恐らくいなかったから、誰もが驚いたんだろうと思うよ。最初はフィニッシュホールドじゃなかったけど、使うたびにお客さんがオォッ沸いてね。それが積み重なってフィニッシュになっていった」

 藤波辰巳、タイガーマスクとジュニアヘビー級で華麗な空中殺法は、リングを彩ったが、身長188センチ、体重で100キロを超えるヘビー級の選手でこれほど華麗に舞ったレスラーは存在しなかった。一方でアントニオ猪木が掲げたストロングスタイルを標榜する当時の新日本の前座で派手な技は禁物だった。武藤は、デビュー1年目で言わば新日本のタブーに触れたのだ。だが、猪木、坂口征二ら先輩レスラーの反応は意外なものだった。(敬称略)

 ◆武藤 敬司(むとう・けいじ)1962年12月23日、山梨県富士吉田市生まれ。55歳。1984年4月に新日本プロレスに入門。同年10月にデビュー。以後、IWGPヘビー級、IWGPタッグ、三冠ヘビー級王座など数々のタイトルを獲得。89年4月に米国のWCWで化身であるグレート・ムタが誕生。2002年1月に新日本を退団し全日本プロレスへ移籍。同年10月に社長に就任。13年5月に全日本を退社し同年7月にWRESTLE―1を旗揚げし現在に至る。身長188センチ、体重110キロ。

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