【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈4〉月面水爆が導いた初の海外武者修業】 

スポーツ報知
最後のムーンサルトプレスを決め取材に応じる武藤

 武藤敬司は1985年11月、初の米国武者修業へ旅立った。

 当時、若手選手にとって海外修業は、スターへの登竜門。デビューからわずか1年で同期の中で誰よりも早く渡米したことは、新日本がいかに武藤の将来を期待していたかの表れだった。

 「恐らくオレが真っ先に米国へ行けたのは、やっぱり、ムーンサルトプレスのおかげだと思っている。タッパ(身長)もデカかったし、その上であういうことをやったからね。もしかしたらその時点で幹部の人たちは“こいつもしかしたら運動能力高いかな”ってあの技によって、そういう視線で見てもらった部分はあったと思う。あの技によって海外に行けた可能性はあると思うんだよ」

 向かった先は、フロリダ州タンパだった。

 「坂口(征二)さんと一緒だったから、飛行機もビジネスクラスで米国に入ったんだよなぁ」

 山梨県富士吉田市で生まれ育った武藤にとって米国へ行くことは夢のまた夢だった。

 「山梨から東京に出た時、すげぇビルばっかり並んでて、東京ってすげぇ所だなって思ったからね。だったら、米国って東京よりもっとすごいんだろうと思ったら、フロリダは山梨と変わらなかった(笑い)」

 期待とは違っていた牧歌的なムードのタンパ。肝心の試合も当初は、なかなか組んでもらえなかったという。

 「住んでた所のルームメイトがロッキー・イヤウケア。ロッキーは試合があるんだけど、オレはなかなか仕事がもらえなくて、やることがないからロッキーの試合にいつも勉強も兼ねて付いて行っていた。ある時、試合で欠員が出て“お前、できるか?”って言われて、急きょ、ロッキーのリングシューズを借りて初めて試合をやったんです。そしたら、“お前、すごいな”って言われて。そこからデビューにつながった」

 本格的なデビュー戦の相手はジュニアヘビー級王者にも就いたことがあるデニス・ブラウンだった。この試合で米国で初めてムーンサルトプレスを炸裂させた。

 「いきなりタイトルマッチでね。そこで初めて米国でムーンサルトプレスをやったら凄い歓声だった。試合はオーバーザトップで負けたけど、ここからどんどんオファーが入るようになった」

 米国でのし上がっていく第一歩はやはり、月面水爆だった。当時、フロリダにはヒロ・マツダがいた。マツダのアドバイスで新たなリングネームで戦うことになる。

 「マツダさんから、ブラック・ニンジャっていう選手がいるから、お前はホワイト・ニンジャでやろうって言われて。そこから、リングネームはホワイト・ニンジャってなったから、急きょ、東洋のグッズが売っている忍者ショップに行って、コスチュームを買ったんだけど、それが全然、ホワイトじゃなかったから、ザ・ニンジャっていう名前にして上がることになった」

 ザ・ニンジャとなった武藤は、フロリダで一気にスターダムに乗った。観客を引き付けたスタイル。そこには新日本で培った戦い方が根底にはあった。(敬称略)

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