【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈12〉日本の新団体「SWS」からの引き抜き】 

スポーツ報知
毒霧を噴射するムタ

 WCWで一気にトップヒールとなったグレート・ムタ。抗争相手は、スティング、そしてチャンピオンのリック・フレアーとまさにトップだった。

 印象的な試合はタイトルを奪った試合だった。

 「スティングとボルティモアでやって、テレビチャンピオンを奪った試合は覚えている」

 フレアーとは、フロリダ時代も対戦していたが、ムタとなっての再激突では状況が変わっていた。

 「フレアーとやった時、フレアーがベビーフェイスだった。彼は、ずっとヒールで来ていたからやりずらかったと思う。ただ、フレアーという存在は、ある意味、ベビーフェイス、ヒールっていう枠を突出して認知されていたことも事実だった」

 抗争の中で思い出すフレアーの姿がある。

 「当時は、毎日のように戦っていたから、あいつは、鮮やかなブロンドヘアーなのに、オレが毒霧を吹くから、それが落としきれなくて金髪が緑色になっていたこともあったよ(笑い)」

 ムタの知名度は全米に広がった。

 「WCWがデカイのは、テレビ王のテッド・ターナーがオーナーで会社を保有していたから、ターナーは、ケーブルテレビをたくさん持っていたから、テレビを付けるとオレの試合がいっぱい放送されていたんだ。あの頃は、全米でオレは、めちゃ出ていたよ」

 地区によって観客の反応の違いも感じた。

 「米国も南部とか行ったら10対0でオレがヒールなんだけど、東部へ行くとヒールを応援するファンが3割ぐらいいたよ。そういうファンは、ブルース・リーが好きだから、試合の中でブルース・リーをだぶらせる技を出したりしていた」

 ムタになっても変わらなかったのがムーンサルトプレスだった。武藤敬司とムタ。月面水爆を繰り出す方法は、同じだという。

 「ムタと武藤敬司でムーンサルトに違いはないよ。だって、米国で武藤敬司は存在しないからね。武藤敬司のリングネームで試合をやったことはないんだ。だから、武藤敬司の試合をやっていればムタになる。日本だけなんだ、この二重人格はね。米国は自由なんだ」

 ただ、日本と米国で決定的な違いがあった。それはリングだった。例えば新日本プロレスなら全国どこへ行っても同じ大きさと高さのリングだ。しかし、米国は違った。

 「その日の会場によってリングの大きさも高さも違うんだよ。毎試合、毎試合、それに順応してムーンサルトプレスを出すっていうのは、実は大変なことだったんだよ」

 試合ごとに違うリング。それでも試合前にトップロープに立つなどリングを確認することは、ほとんどなかったという。

 「全部、試合でのぶっつけ本番だった」

 全米のどこへ行ってもどんな状況でも華麗に舞ったムーンサルトプレス。それは、並外れた武藤のセンスが成せる技だった。一方で膝は、再び痛み始めていた。

 「ひざは引っかかるようになっていた。ベストの6割、7割ぐらいの状態になっていた。それでも若いから、休まなくても試合ができたんだよ」

 ムタとなり、全米を震撼させるヒールとなった1989年の年末。思わぬところからスカウトが来た。翌90年に水面下で旗揚げを計画していた日本の新団体「SWS」だった。(敬称略)

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