【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈13〉SWSから提示された数千万円で新日本離脱を決断】 

スポーツ報知
武藤敬司

 1989年12月。WCWでムーンサルトプレスを引っ提げグレート・ムタの一大ムーブメントを起こしていた武藤敬司を日本から訪ねてきた男がいた。若松市政だった。

 若松は、国際プロレスに社員として入社し73年に31歳でプロレスデビューした苦労人。84年8月からは、覆面レスラーのストロング・マシーンのマネジャーで新日本マットに参戦していた。そのため武藤は面識があったが、若松が新日本を去ってからはまったく交流はなかった。

 当時の武藤にとって意外な訪問者だった若松。目的は、翌90年に旗揚げを予定していた新団体「SWS」への引き抜きだった。

 「12月ぐらいに若松さんが住んでいたマイアミまで来てね。“新しい団体をやるから、来て欲しい”って言われてさ。その時に“これから天龍さんとか船木(誠勝)を引っ張るって聞いたよ。だから、若松さんが声をかけたレスラーは、オレが一番最初だったんだ」

 新団体「SWS」は、眼鏡などの販売を全国チェーンで展開する「メガネスーパー」の田中八郎社長がオーナーとなり、天龍源一郎、ジョージ高野らが参加し90年9月に旗揚げした。田中社長は、当時、大きな人気を獲得していた前田日明の「UWF」の大会スポンサーとなった時にプロレスをビジネスとして着目。当時、自らの手で団体を設立するべく水面下で動き始めていた。若松は、新団体の旗揚げへ動く田中社長の言わば相談役、参謀でありマネジャーだった。当時、オーナーの命を受け選手のスカウティングに着手し武藤を新団体のエースに据えることを発案。誰よりも先にスカウトしたのだ。しかし、武藤は若松からの思いもよらないオファーに最初は消極的な姿勢を示した。

 「美味いモン食わせてもらって“お前が描くプロレスをしていい”って言われたよ。だけど、そんなの当時は自信なかったんだよ。それまで自分だけのコーディネートしかしたことないからね。団体を動かすなんて発想がなかったよ。いくらかキャリアは積んでいたけど、それは米国での話であってさ、日本ではそれまでのオレの記憶に残っているキャリアはUWFとの戦いだよ。あのブーイングを浴びた中で試合をした記憶が強烈だったから、自信はなかったんだよ」

 田中社長の参謀だった若松は、豊富な資金をバックに従来のプロレス界では、破格とも言える待遇を提示した。

 「条件は、すごい良かったよ。いくらかって?まぁ数千万だよ」

 26歳から27歳になった当時。新団体のエースとしてスカウトされたが、団体を引っ張る自信はなかった。一方で破格の条件が提示された。さらに若松の行動にも心を揺さぶられた。

 「若松さんが米国に来た目的はオレの引き抜きだけじゃなかった。田中社長に“これからはヘリコプターの時代だから”って言われて、マイアミでヘリの免許を取りに来たんだよ。オレも一緒に教習を受けてね。ただ、ヘリの操縦は難しかったよ。手と足を一緒に動かさないといけないからね。覚えているのは、前からセスナが飛んで来て、あぁ、随分、遠いなって思っていると、あっという間にビューンってすれ違ってさ(笑い)。あの感覚は忘れられないし、ヘリコプターの免許まで取らせる田中社長のスケールのデカさは、驚いたよね」

 激しく揺れ動く心の中で決断を下した。

 「新しい団体に行きますって返事したんだ。まぁ、言ってみれば、金になびいたんだよ」

 武藤は新日本離脱を決断した。(敬称略)

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