【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈18〉失敗を糧にしたグレート・ムタの覚醒】

スポーツ報知
グレート・ムタ

 1990年9月7日、大阪府立体育会館。グレート・ムタが日本マットに初見参した。

 対戦相手は、越中詩郎。越中はメキシコマット時代に使っていたリングネームのサムライ・シローで登場した。言わば、化身対決となった。

 「ハッキリ言って、ムタは日本では出したくなかった。あくまでも米国では武藤敬司がムタであるからね。米国だけの限定で取っておきたかったんだよ」

 当初は、マッチメイカーの長州力もムタを新日本のリングで出すことは反対だったという。しかし、ファンの要求、サイクルの早いリング上の展開、さらには、全日本はもちろん、UWF、FMWと新興勢力との興行戦争を勝ち抜くべくムタは、登場を迫られた。試合は、日本初公開のムタとしてのムーンサルトプレスで勝った。しかし、会場の反応は冷たかった。

 「自分でも試行錯誤しながらサムライ・シローとやったよ。米国では、武藤の動きをしていればそれがヒールになったわけだからね。それが、試合終わって、武藤がペイントしただけで何も変わらない試合をしたって叩かれてさ」

 武藤敬司の戦いが米国ではそのままムタだった。ムタと武藤は一体だった。しかし、日本のファンは、武藤ではない化身としてのムタを求めていた。それは武藤自身も痛感していた。

 「サムライ・シローとの試合を自分の中で考えて、それで米国と同じムタでは違うかなと思って馳戦が生まれたんだ。あの時に真のヒールとしてのムタが生まれた」

 1週間後の9月14日、広島サンプラザ。ムタは、新日本マット2戦目のリングに立った。相手は馳浩。試合は、反則攻撃のやりたい放題で馳を大流血に追い込んだ。結果は反則負けだったが、リングに持ち込んだ担架に乗せた馳を目がけてムーンサルトプレスは強烈なインパクトを残した。非情な反則技と担架への月面水爆は、極悪ヒール、ムタのイメージを強烈に刻み込んだ。

 「武藤敬司とムタが二重人格なのは日本だけなんだよ。ハッキリ言って面倒くせぇよ。ただ、言えることは、ムタと武藤はライバルなんだよ。例えば東京ドームの試合にどっちが出るかっていうのも、その時の威勢のいい方が出る。オレの中ではそれは競争なんだよ」

 馳戦の戦慄でムタは、日本でも受け入れられ、今につながる地位が確立した。入場シーンも注目された。中でも9月30日の横浜アリーナでのリッキー・スティムボード戦は、天井から宙づりで登場した。また、91年9月23日、横浜アリーナでの藤波辰爾戦では二代目・引田天功のイリュージョンで出現するなど、ファンを驚かせた。

 「あの宙づりは、人力だからね。入場する時も1つ前の試合ぐらいからずっと待機しないといけないし、小便も行きたいけど、ずっとぶら下がっているから行けねぇし大変だったよ(笑い)。引田天功でも入場したけどね、入場っていうのは、スタッフがやることであってね。やっぱり、入場は入り口であって最終的には試合で見せないといけないよな。当初、昔のムタは入場までを売って試合はどうでもいいって言われたこともあった。毒霧とか使ってウワァってなるけど、試合が盛り上がらないってこともあった。それはあんまりよくねぇよな。やっぱり、プロレスは結末が重要だもんね。言ってみれば、入場の時に“誰だあれ”ってなって、試合が終わったら、会場がウワァってなるのが理想だもんね」

 武藤敬司とグレート・ムタ。2つの個性の戦いにひとつの答えが出る時が来る。新日本の最高峰、IWGPヘビー級王座の奪取だ。先にベルトを手にしたのは、果たして…ムタだった。(敬称略)

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