【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈19〉武藤で敗れ、グレート・ムタで奪取したIWGP】

スポーツ報知
グレート・ムタ

 1992年5月17日、大阪城ホール。武藤敬司は、長州力が持つIWGPヘビー級王座に初挑戦した。デビュー8年目で迎えた新日本プロレスの最高峰へのチャレンジは、ムーンサルトプレス2連発を放ったがリキラリアットの連打の前に粉砕された。

 それから3か月後の8月16日、福岡国際センター。今度は、グレート・ムタが長州に挑戦した。結果は、ムーンサルト2連発で革命戦士を葬り、初めてIWGPのベルトを腰に巻いた。試合後は消化器を長州へ噴射しやりたい放題の大暴れ。「武藤敬司とムタはライバル」と明かす武藤。同じ月面水爆2連発でも武藤は敗れ、ムタは、勝利した。

 当時のマット界は、一大ブームを作った前田日明の新生UWFは崩壊し3団体に分裂。代わりに大ブレイクしていたのが大仁田厚が旗揚げしたデスマッチ路線を打ち出したFMWだった。電流爆破デスマッチという言わば何でもありのプロレスが受け入れられた時流。もしかすると、新日本がこうした動きに反応したのかもしれない。いずれにしてもこの時、新日本がトップとして必要としたのは、ベビーフェイスの武藤ではなく異次元のヒール、ムタだった。初めてのIWGP奪取が武藤ではなくムタだったことに不満はなかったのだろうか。

 「最初のIWGPはムタだったけど、別にオレの中では何とも思わなかったんだよ。武藤じゃなくてムタなのかとか、そんな意識はしていなかった。もしかするとIWGPを取った時点でそんなにうれしいっていうのもなかったような気がする」

 化身としてのムタでの戴冠ではあったが、橋本真也、蝶野正洋の闘魂三銃士の誰よりも早く新日本の最高峰を極めた。そんな栄光も武藤の中では特別な感慨はなかった。福岡でのベルト奪取から武藤とムタの「二刀流」が本格化する。通常のシリーズは、「武藤」で参加し、タイトルマッチに「ムタ」が登場した。ザ・グレート・カブキとの親子対決も実現。福岡ドームに初進出となった93年5月3日にはハルク・ホーガンとの夢対決も成し遂げた。IWGPの防衛戦とビッグマッチだけに出現する「ムタ」のプレミアム感は、増していった。

 武藤が化身のムタとの二刀流で輝きを増したこの時期。新日本は93年8月に真夏の最強決定戦「G1クライマックス」を初開催。決勝は武藤と蝶野の対決となり、下馬評を覆し蝶野が優勝した。試合後は、座布団が乱舞し、蝶野、橋本、武藤の3人がリング上で両手を上げたファンの歓声に応えた。このシーンが三銃士時代の本格的な幕開けだった。この年の9月20日、愛知県体育館でムタは橋本に敗れ、IWGP王座を明け渡した。

 「当時のオレは、新日本の中でそれなりにもてなされていたよ。武藤とムタを同時にやっているうちにG1が始まって、蝶野が出てきて、橋本も出てきた。ムタも定着し出してきた。その辺から今振り返ると三銃士時代が始まったよね。90年代だよ全部。終わりにはNWOがあったしね。90年代の頭から終わりまで10年ぐらいは三銃士時代だったんだよな。そっから本当のライバルになった。みんな別れて屋根が違うところに行ってしまったけどね」

 武藤とムタの二刀流を「本当に面倒くさかったよ」と独特の表現で振り返るが、ただ、約11か月間も「二刀流」でIWGP王者として新日本のトップを極めたのは後にも先にもこの時の「ムタ」と「武藤敬司」しかいない。ただ、ムタの伝説はこれで終わりではなかった。アントニオ猪木との戦いだ。(敬称略)

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