【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈27〉3度目の膝手術、nWo終焉の理由とは】

スポーツ報知
武藤敬司

 武藤敬司としてnWo入り後、蝶野正洋とのタッグでIWGPタッグ王座を獲得。ベルトをスプレーで「nWo」と塗るなど文字通り新日本プロレスの中心としてシリーズ全体を動かした。

 迎えた1998年。マット界は、節目となる大きな出来事が連続した。1月4日、東京ドームで長州力が引退試合を行った。そして、4月4日、新日本の創始者アントニオ猪木が38年間のプロレス人生に終止符を打った。引退試合は東京ドーム史上最高の7万人を動員した。

 この歴史的なドーム大会で武藤は蝶野とのIWGPタッグの防衛戦で橋本真也、西村修と対戦し防衛に成功した。空前のnWoブームの中、両膝は悲鳴を上げていた。4・4ドームの終了後、横浜市内の病院で右膝の手術を行ったのだ。これで3度目のメス。約3か月間に渡る長期欠場を強いられた。順調に驀進していたnWoも行く手を遮ったのはまたしてもムーンサルトプレスで痛めた膝だった。

 「その頃、膝に潤滑油みたいなのを入れる注射を米国まで行って打ちに行っていた。1回打つと半年は持つっていう注射で日本でも打ちたかったんだけど、厚生省(現・厚労省)が認可してなくて米国へ行かざるを得なかったんだ。注射は、3週間に3回打たないと効果が出ないという薬で、到着してすぐに打って、1週間後に2度目を打って、また次の週に打つっていうやり方だった。長男が生まれたばかりでまだ、小さかったから家族で行ってね。半分バケーションみたいなもんだったよ。ただ、それで膝が良くなったかどうかは正直、分からなかったね。マジで膝だけは分からねぇんだ」

 負傷は武藤だけではなかった。この年の8月8日、大阪ドームで藤波辰爾を破って蝶野が初のIWGPヘビー級王座を獲得した。ついに頂点に立った黒のカリスマだったが、頸椎損傷で長期欠場に追い込まれ、1度も防衛戦を行うことなくベルト返上を余儀なくされた。武藤と蝶野の相次ぐ負傷欠場に端を発し、nWoは内部亀裂を起こす。武藤自身は、99年1月4日の東京ドームでスコット・ノートンを破り3年ぶりのIWGP奪還に成功したが、蝶野とは完全に決裂。蝶野は「TEAM2000」を結成し袂を分かった。ただ、nWoの亀裂の裏側には別の事情もあった。

 「nWoってあのTシャツがめちゃめちゃ売れたんだよ。ロイヤリティも相当、入ったんだけど、会社はオレらに、焼き肉をごちそうするだけで終わりだった。それにプラスして米国のnWoからも、オレらのフィギュアのベルトに「nWo」って塗ったバージョンを売ったら、こんな小さな文字なのに“nWoって入っているじゃないか。金よこせ”ってクレームを付けてきたんだ。オレらが、さんざん踏ん張って引っ張ってnWoを日本でこれだけ売ってやっているのにってなって、蝶野はnWoをやめて、T2000を作ったんだよ」

 プロである以上、成功に見合った報酬を求めるのは当然だろう。しかし、新日本から特別ボーナスはなかった。蝶野と2人で体を張り、頭を使い、観客を動員してきた対価が「焼き肉」では、虚しさを感じたのは無理もなかった。最終的には2000年1月4日、東京ドームで武藤が蝶野に敗れnWoジャパンは解散した。3年間、驀進してきたnWoが終焉。次に武藤が選んだのは10年ぶりのWCWだった。(敬称略)

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