【長州力インタビュー〈4〉】亡き橋本真也に今、思うこと…現場監督として査定を導入した90年代の新日本

スポーツ報知
橋本真也氏(左)と激闘を展開した長州力

 プロレスラー長州力(66)へのインタビュー4日目は、7月10日に後楽園ホールでのプロデュース興行第2弾「POWER HALL2018~Battle of another dimension~」で戦う橋本大地(26)、父の故橋本真也氏(享年40)、さらには1990年代に新日本プロレスの現場監督を務めていた時の思いを明かした。

 7・10後楽園で長州は、大日本プロレスの関本大介(37)、ヨシタツ(40)=フリー=と組み、全日本プロレスの秋山準(48)、大日本プロレスの橋本大地(26)、WRESTLE―1の黒潮“イケメン”二郎(25)と対戦。橋本は、2005年7月12日に40歳の若さで急逝した“破壊王”橋本真也氏の長男。11年3月にデビューし、12年1月8日にシングルで対戦している。当時の印象をこう明かした。

 「うん、(前に)やっているのはやっているな。印象はないですよね。まったく印象ない。(今回は)一生懸命リングで暴れてくれればいい。あんまりこうオヤジがどうだって気負わないで…」

 亡き父の橋本真也氏とは、90年代の新日本のリング内外で激しくぶつかった。今、破壊王へどんな思いがあるのだろう。

 「そんなのしゃべり尽くしたらもう疲れちゃう。チンタはチンタですよ。激しい気性を持った…うん」

 長州は橋本氏を「チンタ」のあだ名で呼んでいた。それは今も変わらなかった。橋本氏への直接的な思いは口を閉ざした。しかし、続けてこう表現した。

 「本人は本人なりに、いい選手とかどうのこうのってあるけど。いくら練習でボクがああだこうだって新弟子時代から言ったって面倒は見るけど育てることはないからね。育つって言うのはみんな一人一人自分と同じようになれっていうあれじゃないから。まぁ面倒はやっぱり会社で見るわけだから、ああだこうだ口うるさいことも言うし。でも、育っていくのにこれをこうしてこういう具合になれっていうのはないですよ。一人一人みんな違うわけだから」

 90年代の新日本は橋本氏、武藤敬司、蝶野正洋の闘魂三銃士がリングの中心に座していた時代だった。その中でも橋本氏は、初の東京ドーム進出となった89年4月24日に長州を3人の中で真っ先に破った。こうした結果から革命戦士は、破壊王をある時期、高く評価していたのではないだろうか。その質問を投げかけると長州は、自身が現場監督をしていた当時、導入した選手への査定制度について語った。

 「基本的にはどういう形になろうが選手になろうが、ある時期を経て、みんなボクにとってはあんまり責任があるうんぬんじゃないんですよ。それはなぜかって言うと新日本っていうのは今は分からないけど査定をやったでしょ。査定はボクはやった方がいいっていう提案で査定を何年かずっとしてきて枠を取って。それだけその時代も良かったし、だから査定されているころの方が選手は上の人間でも下の人間でも良かった時代じゃないかなと思いますよ」

 なぜ査定制を導入したのか。

 「プロでやっているわけですから。野球だって数字でやっているじゃないですか。プロレスでも査定できるっていう。“はい、これ今年の契約”って言われてサインするだけっていうのは…意見も何もないだろうし、それはボクは入った時からちょっと嫌でしたね。ボクは誰か会社で査定をやって欲しいと思ってましたよ。ただ、その頃は会社の内部組織の中に入るわけじゃないし…。だから、そういうチャンスがあった時にいろいろ話を聞いてもらったりして、それからですよね。そこで役員になった中で現場の部分を担当していたから、そういうものをやった。プロなんだから査定してもらった方がいいだろうって」

 89年に坂口征二氏が社長に就任し、長州はマッチメイク、現場を監督する担当の取締役に就いた。この時に若手の頃から思い描いていた査定を導入した。しかし、プロ野球など勝敗、個人成績といった明確な数字で査定できる世界と違い、プロレスでは、評価の基準に明確な線引きが難しいと思う。しかも90年代の新日本には個性的で高い人気を獲得していた選手が数多くいた。評価の基準はどこに置いていたのだろうか。

 「あれだけスターがいるって、あれだけキャラの濃い選手がたくさんいるから(難しい)っていうのは、それは見る側が言うだけであって、こっち側サイドではそんなものは、あまり関係ないですよね。試合の時の2時間から3時間、きちっと集中してくれればいいわけで、使う使わないは、こっちは流れの中で選手を使っていくわけですから。その代わりきちんと査定はしましたよ。ボク一人で査定していたわけじゃないし。ボクは現場だけの査定のやり方で、あとは会社から2人ぐらい入ってやっていた。年に一回、その本人との契約が来た時は本人の意向もマジで言ってくるし、こっちもマジで言い返すことができる。その中で接点を合わせていくわけですからね。それは一番いいことだった。だからみんな1枚の紙切れで、“はい、サインして。はい、終わり”っていう時代じゃなかったですよね。そしたら電卓を持ってくるヤツとか出てきたりとか仲介人を連れてきたりとか。イライラすることがあるけれど、そういうことをやることが毎年、年に一回の契約日に中身も見ないでサインだけっていうものよりは、良かったと思いますよ」

 評価基準は、試合だけではなかった。選手がそろって道場で練習する「合同練習」への参加、姿勢、態度も査定した。

 「レスラーだから休みの期間もあるわけですから、合同に入るまではみんなフリーでいいわけですから。でも合同になっちゃうとそれはひとつの仕事だと思わなきゃ。それは査定できないわけですから。だから、あとは自分たちでどう体を動かしてやるのかやらないのか。あとはもうそこまでのあれはないですよ」。 試合だけでなく練習からプロとしての仕事を求めた長州。その上で再び破壊王への評価を聞いた。

 「よくぞあの体であのキャラを出したっていう人もいるし。みんな見方違いますよ。そういうのは本人しか分からないですよね。まぁ、波はあったんじゃないですか。それもボクにはあんまり関係ないことであって。仕事の部分とリングの部分ってありますよね。その代わり新日本の契約選手になるわけだから、あんまりトンパチなことやっちゃうと会社にも迷惑がかかちゃうし。それは何でもかんでもというわけにはいかないですよね。あとはどう育っていくかは本人次第なんですよ」

 40歳での急逝から今年で13年。橋本真也氏は生き急いだのだろうか。

 「それはボクには分からないですよ。誰にも分からないですよ。ただ、逝くときは逝くんですよ。どれだけトレーニングしたってケガするし。トレーニングするからケガしないっていうこともないですから…分からないですよ」

(続く。取材・構成=福留 崇広)

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