ビッグバン・ベイダーさん死去…1年前、50センチの至近距離で見た瀕死の数分間

スポーツ報知
余命を覚悟しながら日本のファンに雄姿を見せたベイダーさん(昨年4月20日・後楽園ホール

 新日本プロレス、全日本プロレス、UWFインターナショナルで大活躍。IWGPヘビー級と三冠ヘビー級という日本マット界最高峰の二つのタイトルを外国人として初めて獲得した米国人レスラー、ビッグバン・ベイダー(本名・レオン・ホワイト)さんが18日午後7時28分、米国で肺炎のため死去した。63歳だった。

 NFLの若手有望株からレスラーに転向したベイダーさんは、私にとって最も印象深い外国人レスラーだった。そのファイトを初めて見たのが、プロレス担当だった93年のこと。高田延彦(56)率いるUインターのデビュー戦でベイダーさんは中野龍雄(53)を丸太ん棒のような腕でひたすら殴りつけるだけで“秒殺”。目の前で展開されたのは殺戮劇としか言いようのない駆け引きも何もない単なるナチュラルパワーの爆発。その瞬間、ゾ~ッと背筋が寒くなったことを昨日のことのように思い出す。

 一生忘れられない経験をしたのは、それから24年後の昨年4月20日のことだった。その日、東京・後楽園ホールで行われたのは、プロレス界のレジェンド・藤波辰爾(64)のデビュー45周年を記念したメモリアル大会。大会の目玉として久しぶりに来日したのが、ベイダーさんだった。

 ベイダーさんは2016年11月、交通事故に遭い、生死の境をさまよった上、自身のツイッターで、うっ血性心不全で医師から余命2年の宣告を受けたと公表していた。とてもリングに上がれる状態ではないと思われたが、親友・藤波のために緊急来日。メーンの6人タッグマッチで武藤敬司(55)、AKIRA(52)と組んで、藤波、長州力(66)、越中詩郎(59)組と対戦した。

 90年代のファンを魅了した黒のツーショルダーロングタイツに赤いフェイスマスク。仕上がった体で試合前に「自分自身は問題ない。元気だ」と言い切っていたとおり、迫力満点のラリアットにセカンドロープからのボディープレスと大暴れ。しかし、試合はAKIRAが藤波のドラゴン・スリーパーの前に敗れ、巨体を揺らして悔しがっていた。

 まさに事件が起こったのはその後のこと。そう、満員札止め2273人の観客が言葉を失ったのは、試合後の藤波45周年のセレモニーの真っ最中のことだった。始めこそ、お祝いに駆けつけた前田日明(59)らと、汗まみれの顔でにこやかに握手をかわしていたベイダーさんが、お祝いゲストの“真打ち”アントニオ猪木氏(75)のテーマ曲が場内にかかった瞬間、突然、リング上にあおむけに大きな音を立てて倒れたのだ。

 その時、私は記者兼カメラマンとして、ビブスを付けてリングサイドでカメラを構えていた。目の前50センチほどの距離であおむけに横たわったベイダーさん。「スースー」という呼吸音、分厚い胸も上下していたが、目をつむったまま約3分間、動かず、場内は騒然となった。

 タッグ・パートナーのAKIRAが「おい、やばい、やばい」と言いながら、その顔に水をかけると、やっと起きあがったベイダーさん。倒れた、その姿に気づかなかったのか、リングに上がった猪木氏がお決まりの「元気ですか~!」の掛け声を掛けた。「元気じゃないよ! ベイダーさんが死にかけてるじゃないか!」―。その時、私は猪木氏の無神経な行動に心の底から腹を立てていた。

 ただ、こちらも仕事なので「救急車。救急車」と、つぶやきながらも倒れたベイダーさんを至近距離から撮影した。

 結局、セレモニー中、ベイダーさんは、ゆっくり控室に引き上げた。とにかく、持病がうっ血性心不全。取材を忘れて心配する記者たちに本人は最後までノーコメントを貫いた。

 代わりに、この日の主役・藤波が「自力で控室に戻れたので、安心しました。久々の日本ということで、僕ら2人(藤波と長州)を見たら、自分が目立ってやろうという、そういうものが、ああいう形になったのでは…。とにかく張り切り過ぎたんでしょう」と、その状態と心境を説明してくれた。

 回復したベイダーさんは22日に福岡、23日に大阪で行われた藤波メモリアル大会に出場し、無事帰国。とにかく大事に至らなかったことが嬉しかった。長く記者をしていても、四半世紀前に、その抜群の強さに憧れまで抱いた大物レスラーの死の瞬間に立ち合うなんて経験は、本当にごめんだ―。心の底から、そう思ったことを覚えている。

 それから1年2か月がたち、聞きたくなかった訃報が届いた。193センチ、170キロ(全盛期)の体で平然とトップロープからの空中殺法までこなした元祖フィジカル・モンスターは、もう帰ってこない。(記者コラム・中村 健吾)

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