藤波辰爾、18日に急逝のベイダーさんからレジェンドプロレス構想を聞いていた

スポーツ報知
橋本真也さんと対戦したベイダー氏(2004年1月)

 プロレス界のレジェンド、藤波辰爾(64)が21日、都内でスポーツ報知の取材に応じ、18日に肺炎のため63歳で急逝したビッグバン・ベイダーさんを追悼した。

 藤波は昨年4月に自身が主宰する「ドラディション」にベイダーさんを招聘。東京、博多、大阪と3試合のツアーで対戦した。

 「久しぶりの日本での試合で彼は本当に張り切ってね。最初の後楽園では試合が終わったリング上で倒れて心配したんだけど、それからは見違えるようなファイトを見せて。最後の大阪は、もう彼の独壇場で一人で試合をしてました」

 ベイダーさんは2016年11月に自身のツイッターに心臓疾患で医師から余命2年の宣告を受けたことを明かしていた。しかし、来日した時には「車の事故にあって2、3日入院して退院の日に病院の院長から心臓が悪いとあと2年しか生きられないと言われた。私は、先生にそれは違うと言った。まったく信じていないと言って退院した。すぐにジムで3時間トレーニングして、ずっとトレーニングを続けて、病気じゃないと思っている、いろいろな病院へ行って院長を含めて6人の医師に診察を受け、最初の医師と同じ意見が4人で2人は違うと言っている。この4人は同じ病院の医師なので同じ意見なのは当然で私は信じていない。自分自身は問題ない。レスラーとして生活して最後まで戦いたい。藤波さんとも何回も話をした。私はここにいる。元気です。今回もリング上で問題はない。例え4人の医師が正しくても私はこの生活を続けたい。ベイダーは死なない。私は死にたい時に死ぬ」と体調の不安を一蹴。全盛期と変わらない丸太のような両腕をあらわにし「どうだ?これでも病気と見えるか」と笑っていた。

 あの時からわずか1年あまりでの訃報に藤波は「今朝、聞いて頭の中が真っ白です」と沈痛な表情を浮かべ絶句した。

 ベイダーさんは1987年12月に新日本プロレスで日本マット初登場した。この時は、ビートたけしが結成したたけしプロレス軍団(TPG)がアントニオ猪木への刺客として出現し、いきなり猪木からピンフォール勝ちを奪う衝撃の日本デビューを飾った。

 以後、藤波は、好敵手として何度も対戦。飛竜革命と呼ばれた師匠の猪木に反旗を翻した88年4月22日の沖縄大会もベイダーさんとの試合後。椎間板ヘルニアを発症した89年6月22日、長野・佐久大会もベイダーさんのバックドロップを受けた直後だった。

 「ボクの重要な場面では彼が必ずいた。いろんな外国人選手と戦ってきましたが、ボクにとって本当に特別な選手でした」

 忘れられないシーンは2015年3月28日。WWEの殿堂入りを果たした記念式典だった。カリフォルニア州サンノゼで行われたイベントにベイダーさんが祝福に駆けつけたという。

 「その時、彼は一番前の席に座って、マイクを持って“藤波は私にとって忘れられないレスラーだ。彼がいなければ、今の私はいない。人間としても本当に素晴らしい男なんだ”ってスピーチしてくれてね。その時にまた日本で試合をやろうって約束して、そして去年、実現したんですけど…」

 藤波は、昨年、来日したベイダーさんからひとつの夢を聞いていた。

 「米国でレジェンドを集めた大会を開きたいって語っていた。その時は、藤波も呼ぶから必ず来てくれって言われて。ボクも必ず行くよって約束していたんです」

 第一線を退いたレジェンドを集めた大会を自らが主宰することがベイダーさんの次の目標だった。結果として、それはかなわぬ夢となってしまった。目標を聞いた昨年4月が最後の来日となった。

 「去年、成田空港で別れる時に、彼は珍しく涙を流してね。“お互いに体に気をつけて、また会おう”ってハグして約束したんです。あの涙はもしかしたら、もう日本に来ることはないとどこかで悟っていた涙だったのかもしれません」

 藤波は10月19日に後楽園ホールで「ドラディション」を開催する。

 「追悼の10カウントゴングだけじゃなくて、試合数を1試合つぶしても、ファンのみなさんが一緒になって彼を偲ぶコーナーをやりたいと思います。その思いが少しでも天国のベイダーに届けばと思っています」

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