58歳でプロレスデビュー…85年に新日本合格の長松浩二さん、マサ斎藤さんの追悼試合で

スポーツ報知
58歳でプロレスデビューする長松浩二さん

 58歳のプロレスデビューが実現する。

 福岡県北九州市小倉北区の造園業「長松造園」を営む長松浩二さん(58)が来年2月15日にプロレスラーとしてデビュー戦を行うことが21日までに分かった。試合は、今年7月14日にパーキンソン病のため75歳で亡くなった日米でトップレスラーとして活躍したマサ斎藤(本名・斎藤昌典)さんの追悼試合「MASA SAITO MEMORIAL~GO FOR BROKE!FOREVER!~《闘将・マサ斎藤追悼試合》」(来年2月15日、大阪市の城東KADO―YAがもよんホール)。58歳でのデビュー戦に「年齢が年齢ですから、これが最後のチャンスだと思っています。恥をかいてもいいから、悔いが残らないように挑戦してみようと思っています」と意気込んだ。

 58歳の長松さんは、福岡県北九州市出身。島根大学理学部地質学科を卒業した1985年3月に入団テストを受検し新日本プロレスに入団した。当時は、「国立大出身初のプロレスラー」として入団記者会見も行うなど話題となった。プロレスラーを志したきっかけは、当時、テレビ朝日系で毎週金曜夜8時に生中継されていた新日本プロレスのタイガーマスク、藤波辰巳(現・辰爾)らの姿に憧れたことが出発だった。

 「ただ、プロレスラーは体が大きい人しかできないイメージがあって自分にはできないと思っていました。そんな時にグラン浜田さんが試合に出て来て、体の小さい浜田さんの試合を見て“自分にもできる。プロレスラーになりたい”と思ったんです」

 2浪して島根大学に合格し島根県警、大手鉄鋼会社などに就職の内定をもらっていたが、高校生の時に抱いたプロレスラーになりたいという思いを捨てきれず、24歳で新日本の入団テストを受検し身長179センチ、体重85キロの体格で合格。練習生として東京・野毛の合宿所での生活に入った。1年先輩には、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の闘魂三銃士がいた。同期は、飯塚孝之(現・高史)、松田納(現・エル・サムライ)、大矢健一(現・剛功)、片山明がいた。

 「練習は厳しかったですけど、いじめもなくみなさんに可愛がっていただきました。武藤さんはいつも飄々とした感じで蝶野さんは一般常識を知った人で橋本さんも自分をかまってくれました。スパーリングも橋本さんとライガーさんは、よく一緒にやっていただきました。武藤さんともスパーリングはやらせてもらいましたが、自分とは大人と子供ぐらいの実力差がありました」

 団体トップのアントニオ猪木からも声をかけられた。

 「自分と猪木さんは、雲の上のような人でしたから、控室でごあいさつすると、猪木さんは自分のことを知っていて“お前が長松か。地質学科は地質を研究するところ?今度、また関東大震災みたいな地震は来るのかというようなことを聞かれた覚えがあります。猪木さんから声をかけていただいたのは、その一回だけでしたが、感動しました」

 デビューへ向け道場で練習を重ねる日々は順調だったが、心の中では葛藤があったという。

 「入った時から、このままプロレスラーとしてやっていっていいんだろうかという気持ちがずっと、どこかにあったんです。それは、他に就職が決まっていた状況で入団したこともあったと思うんですが…練習も周りの練習生は一生懸命にやっていたんですが、どこかで一生懸命になれない自分がいて。そんな考えではレスラーになれないんじゃないか。なるんだったら覚悟を決めないとダメだと思いまして、覚悟が決まらないなら力を出し切れないと思って辞める決断をしました」

 それが85年6月の終わりだったという。道場で星野勘太郎に辞めることを告げると「今日は休んでいいから、じっくり休暇を取って考えなさい」と言われたが、そのまま南青山の事務所に向かい道場のコーチだった山本小鉄に決意を伝え、副社長だった坂口征二にも挨拶をした。「坂口さんには怒られました。入る時に会見までして期待していたのにと言われまして、辞めるんだったら辞める会見をしろって言われました」

 長松さんは、プロレスラーとしてデビューすることなく「新日本プロレス練習生」でプロレス人生を終えたのだ。

 その後は、アルバイト情報誌を見て長野県で高原野菜農家のバイトをし、大学時代を過ごした島根県松江市に戻り友人と共にスポーツジムを運営。30歳でふるさとの北九州市に戻り建設会社を立ち上げ現在に至っている。

 「辞めてからは、プロレスに戻りたいという気持ちはなかったです。同期の飯塚や大矢が活躍している姿を見ると嬉しくてファンとして見ていました」

 仕事で壁にぶち当たると新日本の道場を思い出したという。

 「あれだけの過酷な練習に自分は3か月だけでしたが経験することができた。あの練習を思えば、仕事のつらさも耐えられると思って乗り越えてきました」

 月日を経て仕事が軌道に乗ると心がうずいた。

 「年を重ねていくうちに、あの時、辞めたことを心のどこかにトゲのように刺さっているんです。悔いが残っているんです。何か悶々としたものが自分の中にたまっていたんですね」

 そんな時、昨年、新日本プロレス元取締役の上井文彦氏(64)と出会った。上井氏に「この歳になっても、いつもリングに挙がっている自分の夢を見ることがあるんです」と打ち明けると「夢を見るということは、プロレスに未練が残っているということだと思うんですよ。なら、もう一度やってみたらどうですか?」と思わぬ誘いを受けた。還暦間近の自分にそんなことができるのか不安だったが「58歳のデビュー戦!いいじゃないですか!全然おかしくないですよ!やりましょう」と背中を押され、デビューを決意。上井氏が来年2月15日に大阪市の城東KADO―YAがもよんホールで開催するマサ斎藤(本名・斎藤昌典)さんの追悼試合「MASA SAITO MEMORIAL~GO FOR BROKE!FOREVER!~《闘将・マサ斎藤追悼試合》」の第1試合でデビュー戦を行うことが決定した。

 試合は「長松浩二58歳のデビュー戦」と銘打たれ、10分1本勝負で行われる。対戦相手は自身の希望で練習生時代に仲が良かった大矢剛功。レフェリーは新日本プロレスの先輩だった保永昇男。そして、試合中の事故で引退した同期の片山明氏に「試合を見てもらいたい」と希望し、片山氏が立会人を務める予定だ。

 試合をマッチメイクした上井氏は「人にはそれぞれの歴史と物語が在ると思います。彼がどんな個人的な理由で退団したのか?それを想像しても始まりません。ただ、彼の58歳の決断を断固支持したいと思います。長松さんの、プロレスラーになれなかった!という無念と、プロレスラーとしてデビューしたかった!という強い胸の支えを、来年の2月15日に解消してあげたいと思います」と思いを語った。

 現在、長松氏の身長は176センチ、体重は82キロ。デビュー戦に向けて仕事と並行しトレーニングを開始している。

 「こんな自分の試合を組んでくれた上井さん、そして対戦をOKしてくれた大矢選手に感謝したいと思っています。自分はデビューしていないのでプロレス技はしらないですし、できません。やれることは道場で叩き込まれたスパーリングだけです。試合では、思いっきり顔面を張られるでしょう、踏みつけられるでしょう、だけど自分は、どんなことをされてもやられる覚悟があります。その中で少しでも何かができればと思っています。終わった後にあの時、辞めた悔いが少しでもなくなっていれば幸せです」

 人生はチャレンジだ。いつ何時、何度、挑戦してもいい。やらない後悔よりやる後悔を長松さんは選んだ。それは、まさにアントニオ猪木が築いた新日イズム。マサ斎藤さんが貫いた「GO FOR BROKE!(当たって砕けろ!)の精神だ。58歳。遅れてきたヤングライオンの闘魂を見届けたい。

 ◆長松 浩二(ながまつ・こうじ)1960年11月25日、福岡県北九州市小倉北区生まれ。58歳。北九州高校から島根大に進み、85年3月に新日本プロレスに入団も同年6月に退団。現在、北九州市内で造園業「長松造園」を営む。家族は妻。

 

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