【あの時・呂明賜が語る】(1)ミートさえすれば打球は勝手に飛んでくれた

2016年11月14日14時9分  スポーツ報知
  • 大きなフォロースルーで初打席初本塁打を放った呂

 1988年、巨人に突然スーパーヒーローが現れた。台湾から第3の外国人(当時の出場選手登録は1球団2人)覚悟で入団した呂明賜だ。来日初打席で初本塁打を記録すると、独特の大きなフォロースルーでアーチを量産。デビューから9試合で7本塁打し、第51代の4番にも座った。同年の球宴には外国人枠を急きょ増やすなど、球界を動かすほど日本中を熱狂させた。現在、台北市内で社会人チームの監督を務める“元祖アジアの大砲”が、当時の舞台裏と本音を明かした。(構成・高橋 大司)

 実はホームランを打つことには、自信があった。確実にミートさえすれば、打球は勝手に飛んでくれる。オーバーフェンスさせるパワーは身についている。そう、自分に言い聞かせていた。詳しくは後述するが、文化大2年のとき、台湾で本塁打競争をしたことがあった。ルールは一人100スイング。そのうち、53本が本塁打。もちろん、私が優勝した。

 アマチュアの国際大会でも米国や日本の投手から打っていたので、チャンスさえもらえれば、日本のプロでもできる、と思っていた。大学卒業後、87年の秋に巨人から誘われたことは、とても光栄だった。中日やロッテなど、他球団もウワサにはなっていたが、実際の誘いは巨人だけ。巨人は台湾の英雄・王貞治さんが監督を務め、台湾でも人気があった。88年当時、プロ野球の1軍外国人枠は2つ。メジャーでも活躍したクロマティ外野手、ガリクソン投手がいたが、必ずチャンスは来ると信じて入団した。

 2軍で経験を積むことは悪くはない。後で生きてくると思いながらプレーしていたとき、クロマティが6月13日、甲子園での阪神戦でけが(死球で左親指骨折)をした。私は、そのことをまったく知らなかった。夜は東京・調布市の知人の家で食事をして寮に帰ったら、新聞記者がたくさん待ち構えていた。「みんな、どうしたの?」とびっくりしていたら、記者の方から「明日から1軍合流ですよ」と。その後、大塚淳弘2軍マネジャーから正式に昇格を伝えられた。

 初めて1軍に上がった6月14日、神宮でのヤクルト戦。驚いたのはミーティングで「6番・右翼」のスタメンを言われたときだ。自分では、代打要員だろうと勝手に考えていた。でも、すぐに「これはチャンスなんだ」と切り替えた。すると初回、本当にチャンスで打席が回ってきた。1死一、三塁。そのときには集中できていた。ギブソンの2球目のスライダー。ミートだけを心がけたが、感触は本塁打だとすぐ分かった。

 翌日の新聞でホームランが130メートル弾と知ったが、飛距離など関係なかった。チームの勝利に貢献できたことがうれしかった。クロマティのけがが治ったら、また2軍に行く可能性が出てくる。だから、このチャンスを手放さないよう、今後も全打席で集中しようと思っていた。その後の打席は、自分でもでき過ぎと思うほど、集中できていた。

 ◆呂明賜(ろ・めいし=正式名ルー・ミンスー)1964年10月30日、台湾・高雄市生まれ。52歳。台湾代表の捕手として小学、中学、高校の3世代にわたって世界制覇。社会人の味全(食品会社)でも4番で通算112本塁打。88年、第3の外国人選手として巨人入団。1年目に当時史上24人目となる初打席初本塁打を記録。巨人在籍4年間で113試合、打率2割6分、18本塁打、49打点。92年から台湾プロ野球でプレーし2000年に引退。台湾代表監督などを務めた。

あの時

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