【マリオのサッカーこぼれ話】ついえた夢(第2話)

2017年10月13日17時48分  スポーツ報知
  • 94年のセリエA開幕戦。ACミラン戦に出場した三浦知良(左)

 不可能へのチャレンジの舞台となったイタリア・サッカーの神殿から一転、ミラノの病院の青白い照明に照らされた救命病棟へ。まるで一瞬のできごとだった。胸おどるすばらしいストーリーが、始まる前に終わってしまう、そんなことがまさかありうるとは…

 大事なのはパニックに陥らないこと。若者は担架の上で痛みに耐える。状況を把握しようと、そのまわりを飛びまわる医者や看護師たち。若者の片目はありえないほど腫れあがっている。正確な診断を下すにはMRIにかけるしかない。その結果、打撲によって、左目の眼窩の側面に小さなひびが入っていることがわかった。そのひびが再び合わさったときに、視神経の一部を噛んでしまったのだ(一瞬のできごとだった)。視神経を解放し、視力へのダメージを最小限に抑えるには、すぐに外科手術が必要だった。

 長い入院生活の間、私のスタッフは毎日カズの病室に詰めた。この期間、私たちは眼科医学に関してはいっぱしの専門家となった。もはやトレーニングプランや試合の戦略のための会議は開かれず、眼の構造についての知識ばかりが増えていった。

 一方、ジェノアは貴重なアタッカーを一人欠いた状態で戦わなければならなかった。カズにとって3か月のブランクの後で一線の戦列に復帰するのは容易ではないことを私は実感した。カズに代わった選手に交替を要求するのは不当だろうし、カズの居場所を確保するために、チームの和やゲームのバランスを崩すことをチームメイトに求めるのは難しかっただろう。

 長く苦しいリハビリに加えて、チームメイトたちとの新たな関係づくりの心理的重圧。それらはまちがいなくカズの人生の重い負担となった。だが、さまざまな不運はあったものの、1994ー95年シーズンに、カズは22回グラウンドに出て、サンプドリアとのジェノヴァ・ダービーではきわめて貴重なゴールを決めた。

 意地悪いとでもいうべき、忌まわしい悲運によって逆境に立たされた私たちは、イタリアのマスコミにサッカー選手としてのカズの真価を伝えることはできなかった。マスコミとは良好な関係が保たれていただけに、グラウンドでの振る舞いやコミュニケーション能力にひいでたカズならば、日本サッカーのPRを行うという私たちの計画は実現できたはずだった。だが、残念なことに、マスコミは勝者にしか興味をもたない。

 私たちは少しずつリーグ戦終了後の準備をし始めた。カズの冒険は、東京でのヴェルディ川崎とジェノアの親善試合で幕を下ろす予定だった。しかし、さらに二つの痛ましいできごとが我々の前に障害として立ちふさがり、悲しみをもたらした。ホームでのミラン戦の試合途中で、観客席でのサポーターの刺殺事件によって中止となったのだ。そして、あの神戸の大震災が起きた。(Graziano Mario Sforza)

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 ◆グラツィアーノ・マリオ・スフォルツァ 1956年7月2日、イタリア・ポテンツァ市生まれ。78年留学のため来日するが中退後、日本人女性と結婚。82年に日本でCM制作会社ウルビスを設立。その後、スポーツ、音楽イベントの企画も行う。87年に当時セリエAナポリに所属していたアルゼンチン代表マラドーナのCMを制作しサッカー界との関わりを深める。88年にナポリ―日本代表、92年にはイタリア代表バッジョ率いるユベントス―日本代表の試合などを企画。三浦知良のジェノア移籍にも関わる。98~09年までは日本サッカー協会公認代理人。02年にはフランス代表ジダンが出演して話題となった日清カップ・ヌードルのCMも制作した。趣味は仕事とオペラ鑑賞。

マリオのサッカーこぼれ話
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