【藤波辰爾45周年ヒストリー】(1)入門するため別府温泉でプロレスラー探し

2017年2月14日15時0分  スポーツ報知
  • プロレス人生45年を振り返る藤波辰爾

 プロレス界のレジェンド、藤波辰爾(63)がレスラー生活45周年を迎えた。アントニオ猪木に憧れ、プロレスラーを目指し1971年にデビューした炎の飛龍。日本プロレスへの入門、猪木の日プロ除名から新日本プロレス旗揚げ、ニューヨークでのベルト奪取、長州力との名勝負数え歌、猪木への思い…。4月に45周年記念ツアーを行う藤波が今だから明かす秘話を連載します。

 藤波辰爾は、1953年12月28日、大分県国東郡(現国東市)に生まれた。幼いころから体は小さく性格もおとなしかった。小学生までは将来への夢も憧れの仕事もなかったという。

 そんな少年が目覚めたのが中学入学後だった。テレビのブラウン管に映し出されたプロレスに心をわしづかみにされた。当時の日本プロレスは、63年12月に力道山が急逝したが、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、吉村道明、大木金太郎を中心に活況を呈していた。

 「子供のころは、引っ込み思案で友達と取っ組み合いすらしたことなかったし、もちろん、ケンカなんて経験もなかった。でも、テレビでプロレスを見た時に“これしかない!”って引き付けられた。今、振り返ると、相手を倒す殴る蹴るという行為は、自分の性格とは正反対だから、ある部分で心の中で眠っていた感情がその反動で爆発したのかもしれない。とにかく、中学を卒業したらレスラーになると決意しました」。

 憧れは、猪木だった。シャープな動き、感情むき出しのファイトスタイル。スポットライトを浴びて躍動する姿は、まぶしく「猪木さんみたいになりたい」と心に決めた。中学時代は陸上部で足腰を鍛えていたが、加えてレスラーになるためスクワット、腕立て伏せ、腹筋など自宅で練習を始めた。居間では受け身の練習も繰り返し、床が抜けたこともあった。

 「中学を出たらレスラーになろうと決めていたので、高校へ行く選択肢はなかった。ただ、レスラーになる方法が分からなかったしコネもつてもなかったので、何とかプロレスラーになるきっかけがつかめないかと考え、自動車整備士になるため別府の職業訓練校に通うことにしました。というのは、自分が住んでいた国東には、プロレスの興行が来ない。別府に出れば、興行も来るし何かきっかけがつかめるかもしれないと考えて、レスラーになる機会をうかがっていた」。

 プロレスラーになるために職業訓練校へ入学。この学校では、実習として板金工場への勤務も義務づけられていた。仕事をしているので学校から月給として2万円が支給されたという。時は1969年。15歳の少年にとって「学校に通いながらお金がもらえたから、当時の自分にとっては、大金でしたよ。そこで自動車の溶接の免許も取れるし、いいものでしたよ」。それでも日々、募るのはレスラーへの思いだった。そんな夢を4歳上の兄・栄二がくんでくれた。栄二は、藤波以上のプロレスファンだった。中学時代には、兄弟2人で大分市内に日本プロレスの試合があると観戦に出掛けていた。

 「誰よりも自分がレスラーになりたいっていう気持ちを理解してくれていたのが兄だったんです。その時は両親にも言えなかったから兄だけに自分の本心を打ち明けていた。中学卒業してからも、気持ちは変わらない自分の姿を見て“そんなにレスラーになりたいのか”っていうことで、私より積極的に率先していろいろ探してくれたんです。そんな時、たまたま、大分の別府温泉に日本プロレスのレスラーがケガで治療に来ているという情報を得て、兄と2人で選手が泊まっている旅館を探しに別府に行ったんです。何の情報もありませんから、2人で何軒も何軒も回って“プロレスラーの人、泊まってませんか?”って聞いて回ったんです。そしたら、ある旅館で“あの旅館にプロレスの人がいるよ”って教えてもらって、行ったらついにレスラーに会えたんですよ」。

 初めて対面するプロレスラーは、同じ大分県出身の北沢幹之だった。(敬称略)

藤波辰爾45周年ヒストリー
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