【藤波辰爾45周年ヒストリー】(2)日本プロレス入門 そして家族との別れ

2017年2月15日15時0分  スポーツ報知
  • レスラー人生を振り返った藤波辰爾

 1970年春、16歳の藤波辰爾は、大分・別府温泉でプロレスラーの北沢幹之と出会った。レスラーに会って入門を直談判しようと兄・栄二と探し回り、ようやくたどり着いたのが北沢だった。

 「北沢さんは、レスラーとしては大きな方じゃなかったんだけど、その時はすごくでかく見えてね。顔を見たら鼻が曲がっているし、胸板なんか分厚くて迫力を感じた。試合は見たことあるけど、何しろ、こんな形でレスラーと会うのはこの時が初めてだったから、自分の気持ちは心臓が飛び出るような感じだった」

 北沢は大分県東国東郡(現・国東市)出身で1961年に日本プロレスに入門。途中、アントニオ猪木が旗揚げした東京プロレスへ移籍したが団体崩壊と共に日本プロレスへ復帰した中堅レスラーだった。生のレスラーのオーラに圧倒された藤波少年。内気な性格も重なって自分の思いを伝える言葉が出てこなかったという。

 「そのころの自分は、前に出られない性格でしかも、レスラーを目の前にして話すこともできなかった。代わりに兄貴が“弟がプロレスが好きで、レスラーになりたいんです”って必死でお願いしてくれてね。その横で自分は、頭を下げるのが精いっぱいだった」

 そんな兄弟の情熱が伝わったのだろう。北沢は「気持ちはよく分かりました。この後に日本プロレス一行が巡業で下関に入ってくるんで私もそこから合流するんで見に来ますか」。いきなりの直談判で巡業への同行の誘い。飛び上がるほどうれしかったという。

 「今、思えば北沢さんに入門を許可する権限はないし、まだ、正式に入門できた訳じゃないんだけど、自分としては、これで“入れる。レスラーになれる”って思った。二つ返事で“お願いします”って答えた」

 別府で兄弟での直談判から数週間後。北沢に言われた通り父親の晋、兄・栄二と共にふるさとの大分・国東を離れ、日本プロレスの試合地となる山口・下関へ向かった。試合を観戦した後、北沢に日本プロレス一行が宿泊している旅館に連れて行かれた。そこで当時の現場責任者の吉村道明と会った。吉村は、力道山の全盛時代から「火の玉小僧」の異名を持つ人気レスラーで力道山が亡くなった後は幹部レスラーとして日本プロレスを支えていた。

 「北沢さんに連れられて吉村さんのところにあいさつに行った。その後、自分たちはすぐに部屋を出たんですが、後で、北沢さんが一生懸命に頼んでくれたようです」

 部屋の外で待っていると北沢が「下関の後に九州巡業があるから一緒に付いてきなさい」と告げた。見習いとして巡業への帯同が認められたのだ。

 あこがれのプロレス界へ入る第一歩が決まった。夢の扉が開いたことは、大きな別れを意味していた。両親、兄弟との別れだった。

 「旅館でオヤジと兄貴と別れたんだけど、あの時のオヤジの後ろ姿は今でも鮮明に覚えている。何とも言えない感じの背中が今でも目に浮かぶ。すごい世界に息子を入れてしまったという何とも言えない思いだったんだろうと思う。本当は連れて帰りたかったんじゃないかなぁと思う。当時、プロレス界に入るということが五体満足で帰って来られない、ある部分では、死をも覚悟しなきゃいけないという感じで捉えられていましたから」

 遠くなる父の背中。ただ、感傷的な思いは一瞬だった。翌日からの九州巡業で「えらい世界に入ってしまった」と思い知らされた。(敬称略)

藤波辰爾45周年ヒストリー
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