【藤波辰爾45周年ヒストリー】(3)永源遥さんのアパートから始まった東京暮らし

2017年2月16日15時0分  スポーツ報知
  • ドラゴン・スリーパーで武藤敬司を締め上げる藤波辰爾(1993年8月6日、新日本プロレスG1クライマックス・トーナメント準決勝)

 1970年。16歳の藤波辰爾は、下関で家族と別れ日本プロレスの九州巡業へ参加した。

 日本プロレスの巡業は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の両エースを除く選手は同じバスに乗って移動していた。藤波は、学生服姿で北沢の隣に座り選手と同じバスに乗った。当時の身長と体重は、176センチ、62キロ。やせた体の16歳は、大男たちに囲まれながら「心細くて、えらい世界に来てしまった」と途方に暮れたという。

 生活から練習まですべてを北沢から指導された。試合前の練習も正式に入門が許されていないため、リングは使えず、会場の片隅で一人でスクワット、腕立て伏せなどの基礎トレーニングを繰り返した。

 「先輩レスラーが怖いとかそういう感情もなかった。もちろん、ファンの時のように馬場さん、猪木さんの試合を見ても憧れたような気分にはなれない。とにかく、毎日が精いっぱい。生活でも練習でも試合でも自分に近い若手がどんな動きするのか。どんな練習するのか必死で、見ていた」

 巡業に参加する前の下関では、憧れの猪木とも初めて対面した。当時、北沢は猪木の付け人を務めていた。猪木に北沢は「私と同じ大分出身で藤波といいます。レスラーになりたいと言ってます。どうぞよろしくお願いします」と紹介された。猪木からはたった一言「頑張れよ」と声をかけられたという。

 「目の前に猪木さんがいて、もう何も言えなかった。すごくデカクてね。あの当時の猪木さんは27歳で結婚前で血気盛んというか迫力がすごかった」

 猪木との対面、無我夢中で動いた九州巡業が終わり上京した。大阪まで在来線で行き、そこから初めて新幹線に乗って東京に向かった。当時の日本プロレスは渋谷にあった試合会場と道場、事務所が入った「リキパレス」が閉鎖され、代官山に新社屋と選手寮を建設中だった。そのため、生活する場所がなかった。

 「住むところがなかったから、北沢さんが仲の良かった永源遥さんに頼むと“じゃぁ面倒見てやるよ”って受け入れてくれて、永源さんのアパートにお世話になることになった」。

 永源は、大相撲を廃業し1966年に東京プロレスに入団。翌年に同団体が崩壊後は日本プロレスに移籍し当時、中堅レスラーだった。アパートの場所は世田谷区若林。8畳と6畳の2間続きの部屋には、同じようにレスラーを志す若い男たちがいた。

 「永源さんは、おおらかな性格だったから、頼まれたら自分と同じような若手をすべて受け入れていた。あの時、同居していたのは小沢(後のキラー・カン)、桜田(後のケンドー・ナガサキ)とか5人ぐらいたかなぁ。永源さんは、6畳の部屋を使って我々は8畳の部屋に5人でいた。寝る時は、みんな布団を重なるようにして寝ていた。自分は体が小さかったから床の間みたいなところに追いやられて寝ていた」。

 永源遥の部屋から始まった東京での生活。同時に本当の意味での新たな門出もあった。北沢に連れられ、外苑前にあった国道246号線沿いにあった日本プロレスの仮事務所で芳の里社長にあいさつし入門の許可が出たのだ。1970年の6月だった。(敬称略)

藤波辰爾45周年ヒストリー
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