【藤波辰爾45周年ヒストリー】(34)過酷なヘルニアとの戦い…眠ることもできなかった5か月間

2017年3月19日15時0分  スポーツ報知
  • 過酷なヘルニアとの戦いを強いられた藤波

 椎間板ヘルニアと診断された35歳の藤波辰爾。89年7月4日の青森・五所川原市体育館での試合を最後に長期欠場に入った。

 椎間板ヘルニアは、椎間板の中にある髄核が飛び出して神経を圧迫するケガ。病院でレントゲンとMRI検査を受け、画像を見ると驚いた。

 「写真を見たら素人でも分かるほど、腰椎の4番目か5番目か髄核が完全に飛び出て神経が曲がっていた。髄核の飛び出ている量も半端なかった」

 医師からは手術も勧められた。

 「髄核が当たっているから“処置しなくてはいけません”って言われたけど、手術だけはしたくなかった。腰にメスを入れれば、現役続行は無理だろうと思った。手術しない方法でリングにカムバックできないかと考えた」

 いい治療法があると聞けば全国どこへでも飛んだ。

 「鹿児島、大分、福岡、広島、大阪…。治療も針、整体、遠隔療法、気功…ありとあらゆるものをやった」

 ただ、回復には結びつかなかった。

 「それぞれ、みなさんすごい熱意を込めて治療していただいた。でも、今から思うのは、ヘルニアの痛みが出た時は、力を入れて熱心にやってもらえばもらうほど傷口が広がってしまっていた。それは素人の考えで逆効果だった。切り傷の傷口を叩いているようなもので血が止まるわけがない。刺激を与えれば髄核が引っ込むどころかもっと炎症を起こしてしまっていた。そのことが何か月かいろんな治療をしていて自分で分かってきた。“かえって何もしない方がいいのか”と思って、治療するなら、局部を引っ張らないとかねじらないとか、遠隔療法といって爪先を刺激するとか触らないことが一番だと思った。病院に行って医師に“炎症を起こして治療しているんだけど”と相談すると“それは、やめた方がいい”と言われた。自分が考えていることと、医師が言うことが同じだったから治療をやめることにした」

 何もしない保存療法に切り替えたのは、欠場から半年後だった。

 「この頃が最悪だった。家からも出られない。腰に水がたまって水枕を背負っているみたいでやわらかい。医師からは炎症が引くまで水は抜かない方がいいと言われた。その時は、あおむけにも寝られない、うつぶせにも寝られない、横向けにも寝られない状態で態勢が動かせなかった。楽な姿勢がなかった。これはきつかった。女房はずっと家にいて自分に付きっきりだった。まさに藤波家の地獄だった」

 1日中、リビングのソファで横たわっていた。

 「寝室のベッドに行けないから、トイレに一番近いリビングのソファの角にもたれて、痛みで意識がもうろうとしながら毛布をかぶっていた。トイレも大仕事だった。痛みで満足に寝られない。朝になると“また24時間この痛みが続くのか”と考えた。この生活が5か月間、続いた」

 休んでいる間の90年3月には、旗揚げ間もない新日本を救ってくれた坂口征二が社長業に専念するために引退した。地獄の日々だったが藤波に引退がよぎることはなかった。

 「やっぱりプロレスが好きだった。引退は考えていなかったし、したくなかった。それと当時は娘がまだ小さくて女房が娘に付きっきりでいないといけない状況なのに、献身的に自分を支えてくれた。娘を車に乗せて自分を病院に連れて行ってくれたりとか、そういう姿を見ると家族のためにもリングに戻らないといけないと思った」

 欠場から1年後の90年夏。保存療法の効果が出てきた。

 「じょじょに炎症も引いてきて、痛みの度合いも楽になってきた。そうなった時にスポーツ医療のトレーナーのところに行って“背骨を真ん中にして腹筋、背筋を鍛えてバランスを保っていないとどっちかに引っ張られるから良くない”と言われて痛くない程度に運動療法を始めた」

 復帰は、独断で決めた。

 「医師から言わせれば復帰はなかった。医師の目から見れば、欠場したあの時点でレスラー生命は終わっていた。医師は復帰について“何とも言えません”と言った。だから、自分自身の判断で治療を続けることよりも復帰へ気持ちを切り替えた」

 ドクターストップを振り切った復帰戦は、1990年9月30日、横浜アリーナ。36歳の藤波辰爾は、453日ぶりにリングに立った。(敬称略)

 

藤波辰爾45周年ヒストリー
  • 楽天SocialNewsに投稿!
その他
今日のスポーツ報知(東京版)
報知ブログ(最新更新分)一覧へ