ソウル五輪レスリング金・佐藤満氏が語る伝説の「500日合宿」復活のススメ

スポーツ報知
佐藤氏は「合宿は最後の4か月半が充実していた」と話した(カメラ・堺恒志)

 男子レスリングが、東京五輪でのお家芸復活を目指し、長期合宿を検討している。88年ソウル五輪前には、500日の異例の長期合宿を敢行し、金2、銀2のメダルを獲得し面目を保った。同五輪フリー52キロ級で金メダルを手にした佐藤満・専大ヘッドコーチ(HC、56)に500日合宿について聞いた。

 500日合宿を日本レスリング協会が行ったのは、王国としての危機感からだった。86年のソウル・アジア大会。当時はフリー、グレコとも10階級で行われ、日本は金メダル5個。9個を獲得した韓国に惨敗した。88年ソウル五輪前哨戦での敗北に、日本協会には衝撃が走った。韓国の躍進を支えたのはナショナルトレーニングセンター(NTC)の泰陵選手村だった。長期的ビジョンで選手を強化し、成果を上げていた。

 当時の日本にはNTCはなく、競技団体が練習場を確保しなければならない状態。財政的には厳しい協会が目をつけたのが、64年東京五輪では選手村だった渋谷区の国立オリンピック記念青少年総合センターだった。この宿泊施設で代表候補16人らが500日合宿のスタートを切ったのが、87年4月27日だった。

 佐藤氏は84年ロサンゼルス五輪でメダルを期待されながら、現役復帰した高田裕司氏(現日本協会専務理事)に最終選考会で敗れ、五輪の舞台に立てなかった。「ソウル五輪は金メダル以外ない」。アジア大会で優勝し、覚悟を決めて500日合宿を迎えた。

 合宿では体づくりからスタートした。朝練では隣接する代々木公園などでランニング。1周1・2キロのコースを5周の長距離走、100メートル3本、50メートル3本、25メートル5本などの短距離走、さらに坂道走を行った。日中は佐藤氏の場合、10キロ弱の距離がある勤務先の日体大まで走り、同校でスパーリングなどの実戦練習。さらに宿舎まで走って帰る日々を続けた。

 空いた時間にはウェートトレも行った。夜には合宿ならではの独特な精神力の鍛錬も待ち構えていた。「『どういう条件でも戦えなければならない』と、真夜中にたたき起こされることもあった」。そこから深夜のランニングに駆り出されたり、1・5キロの減量を命じられることもあったという。

 5月上旬に代表が決まると、合宿はより実戦的になった。北海道や滋賀など9か所を転々としながらの4か月半。2階級上の62キロ級の選手とも戦うなど練習相手が豊富だった。隣ではソウル五輪フリー48キロ級金メダルの小林孝至が厳しい練習を行っており「負けていられない」と相乗効果も生まれた。高田氏もコーチとして合宿に参加。激しいスパーリングを行い「自分のレベルを実感できた。(世界で)これくらい上に来ているな、と感じた」と頂点への確信も得たという。

 88年9月17日、最終合宿地の群馬・草津町でソウル五輪開会式をテレビで見た。選手全員で「閉会式に笑って出よう」と誓った。同30日、高田氏がロサンゼルス大会で敗れたトルステナ(ユーゴスラビア)に決勝で完勝、佐藤氏は表彰台の真ん中に立った。「勝ちたい意識が合宿からあふれていて、負けた選手もいい試合をした。練習はうそをつかないと思った」

 日本はソウル五輪で韓国、米国と並ぶ2個の金メダルと健闘し面目を保った。以降の金メダルは12年ロンドン大会の米満達弘だけだが、昨年の世界選手権でフリー57キロ級で高橋侑希(24)=ALSOK=、グレコ59キロ級で文田健一郎(22)=日体大=が優勝するなど“王国復活”への兆しもある。佐藤氏は「施設がなく、練習パートナーのいない地方の選手にとっては長期合宿はいい。そのためには年間計画をきちんと作成することが重要。素質のある選手はいるので可能性は十分ある」と東京五輪に期待を寄せた。(久浦 真一)

 ◆佐藤 満(さとう・みつる)1961年12月21日、秋田県出身。56歳。秋田商高に入学してからレスリングを始める。同3年の時、高校3冠を達成。日体大に進学。92年バルセロナ五輪は6位。現在は専大HC。163センチ。

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