「黄金の左」元横綱・輪島さん死去 下咽頭、肺がんによる衰弱で波乱万丈の人生に幕

スポーツ報知
79年の秋場所で横綱土俵入りをする輪島大士さん

 大相撲の第54代横綱の輪島大士(本名・輪島博=わじま・ひろし)さんが8日に都内の自宅で亡くなっていたことが9日、遺族への取材で分かった。70歳だった。

 日大から角界入りし、3年半で学生出身初の横綱に昇進。「黄金の左」と呼ばれた左差しで史上7位の14度の幕内優勝を飾った。15年に死去した横綱・北の湖(日本相撲協会前理事長=享年62)と「輪湖(りんこ)時代」を築いた。引退後は花籠親方として部屋を継承するも金銭問題で廃業し、以降はプロレスラー、タレントに転身した。葬儀・告別式などは未定だが、喪主は妻の留美(るみ)さんが務める。

 ともに「輪湖時代」を築いた北の湖前理事長の急死から約3年。昭和を代表する名横綱・輪島さんの訃報に、角界も悲しみに包まれた。遺族によると、下咽頭、肺がんによる衰弱で8日午後8時ごろに都内の自宅で亡くなったという。

 13年に咽頭がんの手術を受けて発声が困難になった。15年の北の湖前理事長の訃報に「先に逝かれて寂しい。俺はもう少し頑張る」と文書でコメントし、通算23勝21敗のライバルの死を残念がった。16年に幕下・豊響(境川)の結婚披露宴に出席した際は報道陣の質問に筆談で対応。約1年前から体調が悪化し、体はやせ細っていたという。

 幕内で通算43度対戦した元横綱・三重ノ海、石山五郎氏(70)=相撲博物館館長=は突然の訃報に「2年前に名古屋のホテルのロビーで会ったのが最後。声は出ていなくても元気そうだった。『そのうち飯でも食べよう』と話したが…」と沈痛な表情だった。

 わずか3年半のスピード出世で番付最高位まで上りつめた。日大で2度の学生横綱に輝き、花籠部屋に入門。70年初場所に幕下付け出しで初土俵を踏むと「黄金の左」と呼ばれた左差しと下手投げが代名詞で、72年夏場所に幕内初優勝。73年夏場所後に学生相撲出身初となる横綱に昇進した。

 身長186センチ、体重130キロ前後で、肩幅が広かった。金色の締め込みをトレードマークに、史上7位の幕内14度の優勝。大相撲を盛り上げた。元関脇・高見山の渡辺大五郎氏(74)は「北の湖は馬力。輪島にはじっくり攻めるうまさがあった。まわしをグッと取ってね」と天才的と称された取り口を回想した。

 マゲを落としてからは波乱万丈だった。81年春場所限りで引退し、花籠親方として部屋を継承した。だが、年寄名跡を借金の担保に入れた不祥事が発覚し、85年に廃業を余儀なくされた。86年には全日本プロレスに入門して出直した。プロレスラーとして、ジャイアント馬場(故人)ともタッグを組んで話題となった。

 それでも、2年8か月でプロレス界から退くと、今度はタレントに転身。アメリカンフットボールの総監督にも挑戦し、居場所を探し続けた。通算673勝234敗。昭和を彩った名横綱が、静かに生涯を閉じた。

 ◆輪島 大士(本名・輪島博=わじま・ひろし)1948年1月11日、石川・七尾市生まれ。金沢高時代は国体で個人優勝。日大では2度の学生横綱を獲得。鳴り物入りで70年に大相撲の花籠部屋に入門した。幕下を2場所連続で全勝優勝して十両昇進。十両も4場所で通過してわずか1年で新入幕を果たした。72年の秋場所後に大関に昇進。73年の夏場所後に学生相撲出身で初めて横綱に昇進した。本名をしこ名にして最高位に就いたのも初めてだった。81年春場所を最後に歴代7位の14度の優勝の成績を残し引退。横綱在位は47場所。幕内通算成績は620勝213敗85休。花籠親方として部屋を継承したが、金銭トラブルで85年12月に廃業した。

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