北の湖と北の富士が口そろえ「輪島が一番強かった」…元大相撲担当記者が悼む

スポーツ報知
1973年5月、大関・輪島(上)の左下手投げで、横綱・北の富士が横転。全勝の輪島は横綱を決定的なものにした

 大相撲の元横綱・輪島大士さんが亡くなったことが9日、分かった(享年70)。日大から入門後、わずか3年半で横綱まで上りつめた希代の実力だけでなく、土俵外でも華やかな現役生活を過ごして注目を浴びた。当時の担当記者が、その人柄を振り返りつつ故人をしのんだ。

 あごをひょいと前に突き出した独特の立ち姿に、トレードマークの「黄金の締め込み」。現役当時の186センチ、130キロ前後の体から力強さは見てとれないが、土俵に上がれば天才だった。日大卒業目前の1970年初場所、幕下付け出しでデビューすると、3年半で横綱に。左前まわしを引き付け、右からおっつけて相手の体勢を崩し攻め込む相撲が武器で、当時からあった「下手投げを得意とする力士は大成しない」というジンクスを覆し、出世していった。

 テレビ解説でおなじみの元横綱・北の富士さん(76)は、親しい記者仲間から「親方が過去、対戦した力士の中で一番力強かったのは誰ですか?」と聞かれると迷わず「輪島(通算7勝5敗)」と言い切った。大鵬、柏戸、佐田の山ら当時の強豪の名前が出てくると予想していたが、「左前まわしを取り、右からおっつける型は威力が一番あった」と舌を巻いていたものだ。もともとは右四つを得意としていたが、右手の引きが強いことから左四つに変えたという。

 「輪湖時代」を築いた北の湖前理事長(故人)も「力強かったのは文句なしに輪島さん。あの右からのおっつけはすごかった」と振り返り、「輪島さんの相撲への愛情は協会を辞めても、途切れなかった」と信頼を寄せていた。理事長は亡くなる2015年まで年に1度2人だけで食事をして交流を続けていた。

 輪島さんは81年春場所中に引退後、年寄・花籠を襲名し、同時に本紙評論家として毎場所15日間、「花籠診断」のコーナーを担当してくれた。力士の長所を褒めるのがポリシー。「負けた相撲などで欠点を責めれば、腐るもの。ライバルの部屋だろうが力士は絶対に褒める。そうすれば更に向上心が芽生え大きく伸びるもの。部屋の師匠はなかなか褒めないから」と言い切っていた。

 85年11月、年寄名跡を担保にした借金問題が表面化し、委員から平年寄へ2階級降格と無期限謹慎処分を受け、同12月に廃業。二所ノ関一門をまとめていた二子山事業部長(元横綱・初代若乃花)は「土俵外の問題だけに頭が痛かった。いろいろと話を聞いたが他人の悪口は一切、言わなかった。あれは偉い」と感心していたものだ。大相撲界に一時代を築いた天才がまた一人、逝ってしまった。(元大相撲担当・大野修一)

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