稀勢の里引退、来年にもアキバで新生・荒磯部屋創設プラン

スポーツ報知
引退会見で涙ぐむ稀勢の里

 日本相撲協会は16日、理事会を開き、第72代横綱・稀勢の里(32)=田子ノ浦=の現役引退と年寄「荒磯」襲名を承認した。稀勢の里は両国国技館で会見し、17年間の土俵人生に「一片の悔いもありません」と涙。19年ぶりの日本出身横綱として絶大な人気を誇ったが、左大胸筋などのけがに苦しみ在位はわずか12場所だった。当面は田子ノ浦部屋付き親方として後進の指導にあたるが、2020年にも独立して新生・荒磯部屋を創設するプランが浮上。候補地はJR秋葉原駅近辺で「世界のアキバ」から将来の横綱を育てる。

 たたき上げの和製横綱・稀勢の里が相撲人生に終止符を打った。茨城・長山中から15歳で「傘、ジャージー、下着」だけを持って旧鳴戸部屋の門をたたいた。17年前の新弟子時代に通った国技館内の相撲教習所の壇上で「覚悟をもって場所前から過ごして、稽古をしてきた。自分の中では『これで駄目なら』というくらい、いい稽古をした。一片の悔いもありません」と語ると、えんじ色の着物の襟元に涙がこぼれた。

 横綱審議委員会から初の「激励」決議を出された進退場所。昨年秋から3場所にわたる横綱ワースト8連敗(不戦敗除く)を喫した15日夜、師匠・田子ノ浦親方(元幕内・隆の鶴)に引退意思を伝えた。負けて横綱が引退を決意するのは、03年九州場所中の武蔵丸以来16年ぶりだった。

 17歳で関取になり、30歳だった17年初場所の初優勝で番付最高位まで上りつめた。だが、翌春場所13日目の日馬富士戦で新横綱Vと引き換えに左大胸筋、上腕などを負傷した。大関時代まで休場がわずか1日だった「鉄人」は、年6場所制(58年)以降の横綱ワースト、8場所連続休場も経験。すがるような思いだったのか、今場所中は朝稽古前に都内の神社を参拝し、静かに手を合わせてからまわしを締めた。

 2年前の大けがを振り返ると「一生懸命やってきました…」と思い詰めて10秒以上も沈黙。「けがをする前の自分に戻ることはできなかった」と無念さをにじませた。休場覚悟で完治前に強行出場を続けたのは和製横綱としての相撲人気を守りたかったから。「ファンの期待に沿えないのは悔いが残る」と唇をかんだ。

 今後は荒磯親方として次世代力士の育成に心血を注ぐ。相撲協会の規定で最低1年間は部屋付きの親方として過ごすが、荒磯部屋として東京五輪開催の20年にも独立することが可能だ。土地購入も1年近く前から検討されており、複数の関係者によると予定地はJR秋葉原駅とJR浅草橋駅の中間地点。近隣に相撲部屋は少なく、アイドルグループ・AKB48の拠点に近いため「AKB(アキバ)部屋」と呼ばれる可能性もある。

 相撲道の根幹は、先代師匠の故・鳴戸親方(元横綱・隆の里)の教え。1日100番、正午過ぎまで続く猛稽古は当たり前で「(先代は)稽古が大事と教えてくれた。一生懸命、相撲を取る、けがに強い力士を育てたい」と決意表明した。当面は9月の秋場所後で調整中の断髪式準備に追われそうだが「稀勢の里2世」育成へ、17年の土俵人生で培った財産を角界に還元していく。

 ◆荒磯 1953年に第38代横綱・照国が荒磯部屋を創設。61年に伊勢ケ浜部屋に改称されたが、83年に小結・二子岳が名跡を継承、93年に二子山部屋から独立して部屋を創設。09年に親方の定年退職に伴い閉鎖され、名跡は同年に稀勢の里が取得した。稀勢の里の現役中は元前頭・玉飛鳥らが借株として使用していたが、18年4月からは空き株となり、引退後の即襲名に支障がなくなっていた。

 ◆年寄の独立 09年に年寄が部屋を新設できる規定が設けられた。〈1〉横綱もしくは大関(陥落した力士も含む)〈2〉三役通算25場所以上〈3〉幕内通算60場所以上(番付制限なし)のいずれかの条件を満たし、師匠の了承を受け、引退後1年以上経過した後の理事会の承認を経て部屋を新設することができる。

 ◆稀勢の里が負傷した日馬富士戦

 17年春場所13日目の結びで対戦。寄り倒された後に土俵下に左肩から転落し、痛みで顔をゆがめて30秒ほど起き上がれなかった。支度部屋では左腕を三角巾でつり、救急車で大阪市内の病院へ搬送。場所後の検査では「左大胸筋損傷、左上腕二頭筋損傷」で約1か月の療養が必要と診断された。

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