スポーツ産業規模15兆円へ、はびこる「長老支配」と決別を…ドーム社・安田秀一氏が提言

2017年7月12日10時0分  スポーツ報知
  • 安田秀一氏

 米スポーツ用品大手「アンダーアーマー」の日本総代理店の株式会社「ドーム」(東京・有明)の安田秀一代表取締役CEO(47)がスポーツ界への提言を行った。

 スポーツ産業化に向けた問題点、大学スポーツのあり方、2020年東京五輪・パラリンピックなどの課題や解決策を様々な視点から提示している。(コラムは同社ホームページでも閲覧可能)

 スポーツで正々堂々と飯を食おう!

 政府が正式に「スポーツ市場規模を15兆円に引き上げる」そんな政策を打ち出した。ようやく日本も「スポーツの産業としての可能性」に気づいたことは素直に喜ばしい。実現できれば、我々含むスポーツ産業に従事する会社の売上が普通にやっているだけで3倍に伸びることになる!

 しかしながら、その中身を見ると実効性に欠ける概念的なモノばかりで、厳しい表現で言えば「絵に描いた餅」状態でまだまだ「食える」モノには仕上がっていない。

 そんな状況下、ここで今一度、世界の流れの中における「日本のスポーツビジネスの課題」を鳥瞰して検証し「その処方箋」を少しばかり考えてみたい。

 日本の製造業が世界を席巻していた80年代、不況に苦しんだアメリカやヨーロッパは金融ビッグバンとインターネットの解放によって、新たなビジネスモデルを次々と構築し、「資本主義経済」という「試合」において、「金融」と「情報」という、オセロでいう「四隅の二角」を取ることに成功した。実現には厳しい「既得権との戦い」があったし、それをやり遂げた特に米英両国には「レーガノミクス」「鉄の女」という強いリーダーシップによる「改革に向けた不退転の決意」があった。石油メジャーなどを抱える欧米は、もともとエネルギーにも強く、現状、オセロの角はほぼ欧米により握られている状況ともいえる(オセロと違い、いくつ角があるのかはわかりませんが)。

 「日本発のビジネスモデルを! 」と言われて久しいが、この状況下、最終的には国内での活動が活発化すればするほど、石油メジャーや、欧米の金融機関、あるいはプラットホームを持つ欧米の「真のIT企業」に「チャリン」とお金が入る仕組みになってしまっている。まず、日本人はこの実態を認識するべきだと思う。つまり、胴元を握られている状態…トヨタが車を売れば売るほど石油は売れるのだ。

 実は、スポーツビジネスも基本的な枠組みはまったく同じなのである。

 日本は今、強化費や施設整備、それ以外にも企業がスポンサーとして盛んに「オリンピック」に巨額の資金を突っ込んでいるが、突っ込めば突っ込むほど、「USOC(米国オリンピック委員会)」にお金が入る仕組みになっていることは、納税者の誰もが知っておくべき事実であろう。

 オリンピックの収益分配の仕組みをざっくり説明すると、開催都市、すなわち東京オリンピックでは東京にもその収益の半分くらいが配分されるが、それ以外のほとんどは「USOC」に流れるのが現在のオリンピックの建て付けなのだ。オリンピック商業化の歴史において、アメリカの放送局が巨額の放映権料を支払うことで成立したこの建て付けはさすがに極端であり、現在でもIOCはUSOCへの配分削減を求めて交渉を続けているようだが、オセロの角を取っていない日本・JOCは完全に蚊帳の外だ。

 ただし、スポーツが石油などのインフラ産業とやや趣が違うのは「スポーツはローカルのロイヤリティが収益の源」であるという点であろう。オリンピック期間の真っ最中でも数万人もの観客を集める高校野球がいい例だ。簡単に言うとオセロの角は世界各地に広がっていて、この「取り合い」には地域性が圧倒的な影響力を与える。

 ここがスポーツビジネスを展開する上で重要な「考え方」となる。そもそも、オリンピック自体が国という「ローカル同士の戦い」で、地元へのロイヤリティを最大限刺激する仕組みによって、ここまで巨大なビジネスとなっている。

 日本が本来、投資するべきスポーツイベントは「国体」や「インターハイ」「高校野球」など「日本のため」になるモノであるべきだ。それによって日本全体のスポーツのレベルは必然的に高まり、結果としてオリンピックなど国際大会での好成績につながってくる。もしくは「お膝元」である「アジア大会」の運営権を勝ち取り「オリンピックに対抗するイベント」に育てる、というのも「オセロの角」に該当する極めて強力な戦法であろう。

 つまり、国内における「地域対決」のロジックを収益化し、サステイナブルなものに仕上げ、基礎的な競争力、アスリート能力の向上のみならず、大会運営などのマネジメント能力を高めること。そして国際競技においては、日本が「四隅の一角を取る」、つまり「胴元」になることに投資をすべきということである。無形資産である「メダル獲得」という、一過性の価値のために巨大なお金を払うのは生産性も合理性もなく、サステイナブルなものになり得ない。まさに「砂漠に水をまく」ようなものだ。残るのは「祭りの後の赤字施設」と「引退後の選手の豊かではない生活」というマイナス要素しかない。

 例えば、日本が産んだ国際競技に「柔道」があるが、全柔連の活動はJOCからの補助金に依存しているため、オリンピックのメダル獲得を「頂点の価値」に置いてしまっている。つまり「メダルの数=補助金」という、非生産的な相関関係が「柔道」における活動目的となってしまっているのだ。実際、この構造はすべてのオリンピック競技に当てはまる。

 こんな状態では何ら価値を産み出すことはできず「スポーツ産業規模15兆円」は到底実現できない。 

 FIFAがオリンピックにA代表を出さないのは、FIFAが主催する「ワールドカップ」というイベントを「オリンピックの上」の価値に置いておきたい戦略で、国際大会における覇権争い、つまりは「オセロの角」をFIFAとIOCで争っている象徴的な事例といえる。

 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)にメジャーリーガーがあまり出場しないのは、日本で言われているような「世界一」を決めようという目的で大会が運用されてるわけではないからだ。胴元であるMLBにとって、WBCはあくまでも「世界規模での資金稼ぎ」が本当の目的、つまりは「MLBの興行」の一環なのだ。MLBは自らの決勝戦を「ワールドシリーズ」と称しているわけで、これこそが「MLBの唯一無二の頂点」と位置づけているのは「文字の通り」明らかである。

 つまり、柔道はオリンピックに迎合することなく「“嘉納治五郎杯”を柔道の頂点とする」という毅然とした目標を設定し、「嘉納治五郎杯をサッカーのW杯のように育てる」という「オリンピックより上」の価値を創造するべきなのだ。「覇権主義」「胴元思考」、すなわち「四隅の一角」を取ることが、柔道が主体的に自らの未来を切り開く条件となる。

 世界中の「立ち技」の猛者たちが金儲けのために日本に集まった「K―1」は日本におけるかつての成功例だ。ラスベガスのボクシングはオスカー・デ・ラ・ホーヤやマニー・パッキャオ、フロイド・メイウェザー・ジュニアなどスーパースターたちが階級を超えて戦う「わくわくするマッチアップ」により、人気を飛躍的に高め、巨大な経済規模を実現した。柔道でも、自立を目指して「階級を超えるマッチアップ」や「技の制限をなくす」あるいは「異種競技と戦う」「腕相撲チャンピオンを決める」など顧客を魅了する独自のイベントを考えるべきだろう。

 道半ばで頓挫してしまったが「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」といわれた木村政彦は、師匠の牛島辰熊とともに、かつて「プロ柔道」を立ち上げたが、スポーツ産業化が国家戦略に組み込まれた今こそ「プロ化」を目指して、補助金に頼らない運営に舵を切るべきだ。

 「商業化は柔道にそぐわない」と言うのであれば、剣道のようにその「道」に徹し、「月謝制」での自立・成立を目指せばいいだけのことだ。僕はスポーツの最大の魅力は人格形成にあると考えているので、商業化がすべてだとはまったく考えていない。しかしながら、現代のオリンピックが、プロ化を認め、商業化を推進することで地域経済の発展に寄与する、という目標設定をしている以上、オリンピック競技として継続するのであれば明確に商業化を目指さねばならない。現在の日本では、競技に関わらずオリンピックでメダルを取れば賞金がもらえるという「プロ」の状態である。しかしながら、現在の日本のオリンピック競技者の大半はプロというステイタスにはなっておらず、なんとも言えない中途半端な状態なのだ。

 いずれにせよ、そもそもの世界の流れ「オセロの角を狙う覇権主義」を理解すること、その上で、各競技団体が自らの将来について「ビジョン」を掲げ、そのビジョンを遂行するためのベストな組織づくりをすることが日本のスポーツ界には求められる。「商業化」を目指すのか「月謝制」でいくのか、競技者を含めた連盟などの団体自身が進むべき道を明確に決めていくべきなのだ。現在の「補助金に頼る」状態の下では、その競技の意義や未来を語るビジョンは生まれない。

 そもそも、現在の日本におけるスポーツの「慣習」では、オリンピック以外の競技に対する補助金は皆無に等しく「メダルを取ること以外は国家として価値を認めない」と言っているようなもので「スポーツの価値とは?」という「そもそも論」をおざなりにしているのは明確だ。

 オリンピック種目に出す補助金は、結果としてオリンピックを盛り上げるために使われる「お金」となり、すなわちそれは「オセロの角」を取っているIOCやUSOCを潤すために税金を投入していることに等しい、という現実に気づくべきだろう。

 スポーツビジネスという産業に従事して20年以上になるが、その間、米国のアンダーアーマー社とともに、日米のスポーツそのもののあり方、社会における活用方法、それを通したスポーツの持つ社会価値、そういったものを見続け、見比べてきた。ドームを始めた当初、1990年代はアメリカのスポーツ産業も大したことはなく、MLBはいつでもガラガラだったし、スポーツ量販店も赤札だらけで、スポーツは斜陽産業のようにさえ思えた。

 この状態から「グイッ」と成長したのは、ロサンゼルス・オリンピックの成功事例をレバレッジに、あらゆる改革に着手、成功させてきたからに他ならない。そしてその肝は、ロサンゼルス・オリンピック組織委員会の会長としてオリンピックの商業化を成功させたピーター・ユベロスなどの多くの有力者がスポーツ産業に参入した「人事」だと僕は思っている。

 アメリカの大学スポーツの成長を牽引(けんいん)している大学の組織「アスレチックデパートメント」のディレクター職も、かつてはアメリカンフットボール部のヘッドコーチの「あがり」ポジションだった。そのポジションを、経営経験のある人材に譲り出したのが成功・成長の始まりである。映画『マネー・ボール』においても、資金力の乏しいアスレチックスが、データを重視した有能なスタッフの起用によって、経営と一体化して現場改革を行い、チームの快進撃と人気上昇からくる経済の安定を手に入れたことが描かれている。

 有能なビジネスマンだったピーター・ユベロスがロサンゼルス・オリンピックの組織委員会の会長になったのは43歳の時だ。彼は当時「金食い虫」で開催都市を疲弊させていたオリンピックというイベントに対し「既存施設を有効活用して収益を最大化する」というビジョンを掲げ、一つの机と一台の電話から改革の口火を切った。結果として、ロサンゼルス・オリンピックの黒字化を達成しただけでなく、後のスポーツビジネスのモデルとなるような施策の数々を作り上げた。ひいてはオリンピックそのものを「世界最大のイベント」に引き上げたのだ。

 権限移譲による適切な人事、明確なビジョンによる英知の集約―が、オリンピックのみならず、連盟・協会などの団体、リーグ、チームなどなどすべての組織運営には不可欠なことを学ばねばならない。

 政府が起案している15兆円のスポーツ産業の内訳を見ると、アクションプランや実効性に関する記述、つまり「何をすべきか」ということが書かれていない。

 すなわち、大学スポーツひとつをとって見ても、商業化を進めるのであれば、まずは運動部を大学の「正規のプログラム」として、その会計を大学と統合しなければならない。だが、その点にはまったく言及がない。大学は厳格な会計監査を行うが、課外活動とされている体育会は「簿外」であり、誰がどの権限でいくらを集め、いくら使っているか、誰も捕捉できない状況なのだ。

 分かりやすく言えば、監督である僕は、自由に部費を決められ、自由に自分の給料を設定でき、ややもすれば申告納税すらせずに済む状態なのである。「簿外」であるため、帳簿自体が存在しなくても良いわけだから、税務署が所得を捕捉できない仕組みはいくらでもつくれる。雇用の形態はチームや学校によってまちまちであるが、学校職員以外の場合は人事規定もないため、本来の雇用の原則である権利・義務の関係がない。つまり、月に1回の通勤でも成立する上、自分で給料を決められる、そんな「夢のような職業」なのだ。また、チームで試合のチケットをやグッズを販売しても消費税を払う仕組みもない。つまり「商業化」をうたう「100歩前」というのが実態だ。

 政府が掲げるスポーツ産業の拡大、そして大学スポーツの産業化に未来の数字を書き込むのであれば「従来の課外活動という位置づけから脱却し、運動部の会計を大学の会計と統合し、人事と収支を管理する」ぐらいの具体的な記述はあってしかるべきだ。

 「神田においしい蕎麦を食べに行こう」という目標を立てても、具体的に蕎麦屋を探し、地図を見て経路を考えて…と具体的な行動計画をつくらねば「神田の蕎麦」を食べることはできない。これはまったくもって当然の話だ。僕の言う「部活を学内の正規の活動にする」は「神田の蕎麦屋への道順を考える」ぐらいのレベルの話なのである。

 なぜ、こんな簡単なことができないのか。それは、「適材適所な人事ができていないから」に他ならない。

 学校、連盟、リーグなどスポーツのあらゆる組織の要職が、政治家や企業を退職した人々の「あがり」ポジションとなっていて、彼らが「威張っている」状態だからだ。部活を悩ませ続けている「OB会」も似たような状態だ。組織はおじさんたちの顔色をうかがい、彼らの承認を得るためにあれこれ知恵を使う。これに労力を取られるばかりか、間違った意思決定の数々を生む。その構造が組織そのものを硬直化させ「組織や競技の健全な発展」ではなく、「どうしたらそのおじさんのご機嫌を取れるか」にしか思考が向かなくなっている。

 最近、復興大臣や法務大臣の「資質」が問題になっている。その背景には「大臣待ち」という風習があるらしい。要は「大臣になれればなんでもいい」という状態である。東京オリンピック・パラリンピック担当大臣にも同様のことが言える。オリンピックという大きなイベントに関する意思決定を素人がする状態、しかも関連組織が多すぎて、誰が舵を取っているかがさっぱり分からない状態でもある。オリンピック担当大臣にはいったいどんな権限があって、毎日何をしているのだろうか。深い深い謎である。こうした人事は「派閥」の力学により、実行され、その背景には「長老たちへの気遣い」が存在する。

 すなわち、スポーツ産業の停滞はそのまま日本の縮図であり「適切な人事が行われない風土」に原因はある。「オリンピックに出場したいから、協会に従わざるを得ない」。選手たちからよく聞かれる言葉だ。協会では怖いおじさんが威張っている。それだけで完全にパワハラの状態である。

 我々はこの長老支配と戦わねばならない。選手はもっともっと大きな視野に立ち、この状態から抜け出さねばならない。そもそもオリンピック後の自分の人生を考えたら、オリンピック出場よりも自分の出身母体競技がより発展して、産業化されることで「飯を食える」状態を目指すべきではあるまいか。

 オリンピックがすべてではなく、オリンピックをどう利用するか。オリンピックに出るのではなく、出た後に何を得るのか。もっともっと真剣に考えて、必要あれば選手で組合をつくり、自分たちの意見をぶつけ合い、競技団体のビジョンを選手自らがつくるべきだと思う。

 最近、中学2年になる息子の運動会があった。物議を醸している組体操がその種目にあったらしい。「4段」という組体操においては最も低いレベル、そしてすべての「組」には先生がつく、という安全管理体制の中で、事故は起こった。一番上の生徒が滑り落ち、一番下の生徒の足を直撃、骨折してしまったのだ。

 「体育教育」の目的はいったい何だろう。誰が責任者で、どんな意思に基づき、体育のカリキュラムを決めているのだろう。なぜ、僕の時代から授業内容ややっていることがほとんど変わらないのだろう。日本の体育はそもそも「富国強兵」「国民皆教育」という近代化政策の文脈の中、大量に抱える農村部の児童たちの基礎的な運動能力を同一的に上げるために開発されたプログラムである。すなわち農村から軍人を育成することが、そもそもの体育教育の始まりだ。

 反対に言えば「体育」が導入された明治時代は「富国強兵」という明確なビジョンがあったことを示している。学校もなく、教育も受けていないたくさんの子供がたちが「同一的」に運動を学ぶことは、その時代では十分に機能しただろう。では、現代ではどんなビジョンに基づいて体育教育のプログラムが作成されているのだろうか。

 新学習指導要領には「心と体を一体ととらえ、 健康・安全や運動についての理解と運動の合理的な実践を通して、生涯にわったて計画的に運動を親しむ資質や能力を育てるとともに、健康の保持増進のための実践力の育成の向上を図り、明るく豊かで生活を営む態度を育てる」と書かれている。

 むむむ…まず、よくわからない。が、気合い入れて因数分解してみると

 「運動に親しむ資質と能力を育てる」

 「健康増進のための実践力育成」

 「明るく豊かな生活態度を育てる」

 という3点が文科省が掲げる体育教育のビジョンであろうか。今の時代、そもそもこのビジョン自体の意味が「?」ではあるが、それはそれとして、 これら3つはすべて「部活動」により実現されている事柄であることに、誰も異論はないだろう。

 同時に、現代では幼少期から少年野球やサッカークラブという正真正銘の課外活動で上記3つをクリアしている子どもも数多い。記憶に新しいところでは「ハニカミ王子」ことゴルフの石川遼選手が高校に進学してすぐにプロの大会で優勝したり、古くは水泳の岩崎恭子のようにオリンピックでメダルを獲得するなど、世界レベルで戦えるアスリートが10代前半から半ばになるとごろごろと存在するのだ。反対に、一度も運動したことなく、家でゲームばかりやっている子どももいれば、楽器が得意な子どももいれば、生まれつき身体が小さく、運動に不向きな子どももいる。

 これらを「十把一絡げ」にして同じ種目の「体育」をする意味がどこにあるのだろうか。組体操で事故が絶えないことも、柔道の授業での不幸な事故が後を絶たないのも、この戦前から続く画一的「体育教育」のカリキュラムを続けている圧倒的な「無思考さ」が原因である。

 アメリカでは、体育、すなわちフィジカルエデュケーションと呼ばれる授業は、そもそも「部活に属していない生徒」が受ける授業である。つまり、運動が好きじゃない、得意じゃない生徒に最低限の健康維持の方法を教えるのが、体育の役割となる。よって、体格や身体能力に大きな差のある生徒が入り混じって「組体操」を行うことなどあり得ないのだ。他方、運動部に属する生徒は、体育の授業に出る必要はない。部活は「授業」なのだ。だから、指導者は部活を指導することで給料ももらえる。

 今、政府で新たな方策として立案された部活指導員制度も、ボタンの一つ目を掛け違えたままでの表面的な対応である。リスクしかなく誰もやりたがらない部活の顧問の代わりに、という部活指導員も、無給で責任だけを取らされる状況なのである。川の流れをきれいにしようと思ったら、上流をきれいにしないと下流で何をしたところですべて徒労である。上流の解決方法はアメリカ同じように「部活動を体育授業として正課とする」だけだ。これだけですべてが解決する簡単な問題なのである。

 僕は、幼少からスポーツばかりやってきた。学校帰りにはプロ野球中継にかじりつき、駅のゴミ箱に捨ててあるスポーツ新聞を何度拾ったか、数えきれない。 「大好きなスポーツで飯が食いたい! 」。その想いだけで大企業を辞め、今の今まで頑張ってきている。純粋に「この競技を愛している、この競技で飯を食いたい! 」と、思っている選手や若いOBを心から応援したい。

 そして、そんな仲間を増やし、ともに学び、ともに成長し、ともに改革を進めていける日を夢に描いている。

 スポーツが授業として認められる日を。 

 スポーツで頑張っている人が安心した未来を描けること。 

 スポーツが日本を変える日を。 

 そんな日が来ることを夢に描いている。 

 スポーツこそ夢の世界。 そして夢こそが頑張るガソリンだ。

 ◆株式会社ドーム(東京・江東区有明)1996年、アメリカン・フットボール大学日本代表主将だった安田秀一氏がテーピングの輸入販売会社として設立。98年に「アンダーアーマー」と契約を締結し、日本総代理店となる。「スポーツを通じて社会を豊かにする」を理念として事業を展開する。機能性を重視したウェアなどが人気。国内でも野球、サッカー、バスケット、ラグビー、陸上などで急拡大中で15年にはサッカーのいわきFCを創設した。主な契約チームは巨人、Bリーグの琉球ゴールデンキングスなど。関東学院大、筑波大などとも提携し、安田氏も法大アメフット部の総監督を務め、大学スポーツの「構造改革」に取り組んでいる。売上高は422億円(2016年度)。

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