「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノ氏、82歳で死去…馬場さんらと名勝負

スポーツ報知
ジャイアント馬場さんと名勝負を繰り広げたブルーノ・サンマルチノ氏(右)(1967年)

 米プロレス団体、元WWWF(現・WWE)世界ヘビー級王者で日本でも活躍し「生きた伝説」と呼ばれたブルーノ・サンマルチノ氏が18日、死去した。82歳だった。持ち前の怪力を生かした「ベアハッグ」などを必殺技とし、「人間発電所」の異名で知られた。1967年3月、日本プロレス参戦で初来日し、ジャイアント馬場さんらと多くの名勝負を繰り広げた。

 日米のリングで多くのファンを魅了したサンマルチノ氏が“第二の故郷”米ペンシルベニア州ピッツバーグで亡くなった。WWE公式サイトなどが伝えた。死因は分かっていない。

 1935年10月6日、イタリア中部の村で生まれ、少年時代に米国へ移住した。182センチ、120キロ(当時)の巨体を生かし、59年にプロレスラーとしてデビュー。63年5月、必殺技のベアハッグやカナディアン・バックブリーカーを駆使し、王者のバディ・ロジャースをわずか44秒で破り、第2代WWWF世界ヘビー級王者となった。

 67年3月に初来日すると、日本プロレスで暴れ回った。ジャイアント馬場さんに米高級車「キャデラック」を贈るなど、リング内外で親交を深めた。72年10月には全日本プロレスの旗揚げにも加わり、日米のライバルとなったスタン・ハンセン(68)とも名勝負を繰り広げ、ファンから愛されるスター選手になった。

 99年1月に馬場さんが亡くなると、その年の5月に東京ドームで行われた「引退記念試合」にも参加した。馬場さんが愛用した16文のシューズをリング中央に置き“試合開始”。ザ・デストロイヤー、ジン・キニスキー氏、サンマルチノ氏らがリングに上がった。大型スクリーンには名勝負が映し出され、「馬場さん、あなたは体だけではなく、心もジャイアントだったね」などとあいさつした。

 レジェンドの死は米メディアでも大きく報道された。元カリフォルニア州知事で俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー(70)は、数十年にわたって一緒にトレーニングを積むなど親交があった。13年4月にサンマルチノ氏がWWEの殿堂入りした際、プレゼンターを務めた。

 シュワちゃんは自身のツイッターにその表彰式の写真をアップ。「伝説であり、アメリカンドリームを象徴する人物」とたたえ、「ナチスから逃れるため、イタリアで幼少時代を過ごした男が、マディソン・スクエア・ガーデンで188試合をこなし、ビッグスターになった。人生のいかなる舞台においても英雄だった」と悼んだ。また、WWEのビンス・マクマホン・チェアマンは、米メディアに「ハードな練習により、困難な状況を乗り越えられることを証明した」などと語った。

 ◆ブルーノ・サンマルチノ 1935年10月6日、イタリア生まれ。米国に移住し、59年にプロレスラーとしてデビュー。63年に第2代WWWF世界ヘビー級王者に。67年に初来日し、日本プロレスに参戦。全日本プロレスの旗揚げにも加わり、多くの名勝負を繰り広げた。

 ◆藤浪「すごいオーラあった」
 プロレスラーの藤波辰爾(64)が19日、スポーツ報知の取材に応じ、「びっくりしました。とにかく寂しい」とサンマルチノ氏を悼んだ。

 直接対戦したことはないが、15年に自身がWWE殿堂入りした際の表彰式で、サンマルチノ氏から馬場さんとの思い出を聞いた。「『馬場は素晴らしい友人だった』とか、昔の話をうれしそうに話していました。昔のプロレスラーは独特のオーラがある。サンマルチノもすごいオーラがありました。ボク自身、ファンのような気持ちで彼と対面しました」と振り返った。その時に撮影した記念写真は、今も大切にしているという。

社会