【#平成】〈2〉「これ、本番ですか?」宇宙特派員の秋山さん支えた「8時だョ!全員集合」

スポーツ報知
1990年12月3日付本紙

 天皇陛下の生前退位により来年4月30日で30年の歴史を終え、残り1年となった「平成」。スポーツ報知では、平成の30年間を1年ごとにピックアップし、当時を振り返る連載「♯(ハッシュタグ)平成」を掲載する。第2回は平成2年(1990年)。

 平成2年12月2日は、日本人が初めて宇宙に飛び立った日となった。TBSの「宇宙プロジェクト」で日本人初の宇宙飛行士に選ばれたのは、同局報道局の外信部デスクだった秋山豊寛さん(75)。「宇宙といえば米国のスペースシャトル」と思っていた多くの国民にとって、ソ連(当時)のソユーズ宇宙船で、しかも40代後半の一局員が9日間の宇宙飛行をしたことは驚きをもって受け入れられた。宇宙での第一声として知られる「これ、本番ですか?」のエピソードなど、「宇宙特派員」を務めた当時について聞いた。(高柳 哲人)

 これ、本番ですか?―。12月2日午後6時56分。人類で初めて宇宙へ行ったガガーリンの「地球は青かった」のような名言を期待していた人は、緊張感のない秋山さんの宇宙からの第一声にズッこけたに違いない。

 「あれは偶然。宇宙だけでなく通常の中継でもそうですが、開始前には別回線で打ち合わせをして、そこから本番の回線につなぐ。それが、打ち合わせ中に予定よりも早くつながってしまい、地球側から呼び掛けられたので、あんなふうになってしまったんです」

 元々は「その瞬間」に向けて、いろいろな言葉を考えていた。「『宇宙から見た地球は素晴らしいが混沌(こんとん)としている』とか考えていた。でも、帰ってから『面白かった』とか言われて、それなら良かったかな、と。まさに、天の配剤だったのでしょう」。生中継をしていることがリアルに伝わったことで、宇宙特派員の「任務」を果たせたと感じている。

 世間では、毛利衛さんがスペースシャトルで最初に宇宙に行くと思われていたが、86年のチャレンジャー爆発事故【注】などで打ち上げ延期に。その結果、秋山さんに「日本人初」の“栄誉”が回ってきたが、自身は「30年近くたちますが、いまだに『日本初』という気持ちはないですね」と淡々と話す。

 「正直、宇宙飛行士というのは『そんなに大したものじゃない』と思っていたんです。私が飛んだ時には、すでに200人以上が宇宙に行っていて、もう冒険でも何でもなくなっていた。『宇宙特派員』というのが面白いことをやれると思っただけなんです。その視点と意識が、自分にとっては重要でした」

 80年代に入って放送技術が発達し、世界各地からの中継が可能になる中で、日本ではどこもやったことのなかった宇宙からの中継に手を挙げただけという感覚。「今考えれば、出張の一つのようなもの。地球とミール(宇宙ステーション)は、400キロしか離れてないんだから。東京から大阪へ出張に行くのと同じですよ」と笑った。

 一般的には軍人や研究者らが選抜される宇宙飛行士の中で、世界でも類を見なかったジャーナリストの宇宙飛行。秋山さんは、その責任を持って飛行中は詳細な記録を付け、帰還後にそれをリポートとしてまとめた。同様の記録はほとんど存在せず、当時の日本の宇宙科学研究所からは「一連の記録は、その後の飛行士たちの参考になった」と言われたという。

 「本来なら国がやることを、民間のテレビ局がやった。『僕が』ということではなく、関わった人すべてがやり遂げた、作り上げたということで意味があったと思います。金はかかりましたけどね(笑い)」。テレビというメディアが一つの到達点に達した時の最前線にいたことを誇りに思っている。

 TBSでは2日から帰還前日の9日まで15回にわたって生中継した。地上の同局スタッフにとっても宇宙からの中継は初体験。さまざまな困難があったことは想像に難くないが、秋山さんは「TBSだからこそ成功した」という持論がある。「あの技術を養ったのは『8時だョ!全員集合』だと僕は思っています。あの番組は毎週、さまざまなホールからの1時間の生中継。当然、いろいろなトラブルやアクシデントも起きたでしょう。それをカバーしながら番組を作り続けていたのが、僕との中継でも生きたのではないでしょうか。すばらしい技術屋がたくさんいたんです」

 秋山さんは宇宙飛行から5年後の95年にTBSを退社した。管理職となり取材現場から遠ざかったこともあるが、以前から農業に強い関心があった。「何より、食べ物のそばにいられるからね。人間は食べていかないといけないから」

 福島県滝根町(現・田村市)でシイタケ農家を営んでいたが、2011年の東日本大震災による福島第1原発の爆発事故で避難を余儀なくされ、転々とした後の同年秋に京都へ移住。京都造形芸術大の教授となり、学生たちに情報メディア論や農作業を通じて五感を鍛える「芸術総合演習」などの講義を行った。昨年4月からは三重県大台町に住み、有機農業に取り組んでいる。

 くわを手にし、土をいじる姿は、実に楽しそうだ。「ニンジンとキャベツはサルにやられちゃって壊滅状態だけどね。ほうれん草やタマネギを作っていて、今年からはブルーベリーに挑戦しようかと。うまくいったら、『道の駅』で売ろうかな」と思い描く。

 「昔は『あの人は今』みたいな番組を担当したこともあったけど、今は自分がその(番組に出る側の)立場になっちゃったな」と“隠とん生活”を笑う。一方で、現在もジャーナリストという意識も忘れてはいない。「東京から離れた場所で、じっくり行く末を眺めてやろうと思って。そうしたら、長生きしないとね」と話していた。

 【注】1986年1月28日、米フロリダのケネディ宇宙センターで、スペースシャトルが打ち上げから73秒後に機体が分解し、乗組員7人全員が死亡した事故。事故後、シャトル打ち上げは2年8か月間中断され、宇宙計画は大幅に変更されることとなった。85年8月に向井千秋さん、土井隆雄さんと共に宇宙飛行士に選ばれた毛利さんは当初、88年1月に打ち上げるスペースシャトルに搭乗予定だった。

 ◆秋山 豊寛(あきやま・とよひろ)1942年6月22日、東京都世田谷区生まれ。75歳。国際基督教大(ICU)卒業後の66年にTBSに入社。ラジオニュース部に配属。BBC出向を経て外信部、政治部に所属。84年、ワシントン支局長に就任。90年、日本人初の宇宙飛行士としてソ連のバイコヌール宇宙基地からソユーズ宇宙船で宇宙へ。95年、TBSを退社。2011年11月に京都造形芸術大の教授に就任(18年4月から客員教授)。

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