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明治、大正、昭和、平成、令和 「歴史」のそばにはいつも報知がいた- 報知新聞創刊150周年

「両国報知社図」(郵政博物館所蔵)

▼「郵便報知新聞」創刊

 1872年6月10日、駅逓頭だった前島密の発案により東京・両国で「郵便報知新聞」が創刊された。木版刷り半紙2つ折り9枚つづり(2号から6枚つづり)、月5回発行で定価3銭。全国の郵便組織を通じて集めた地方の話題が豊富だった。太陽暦を採用し、1年を365日と定めた年。新橋-横浜間で初めて鉄道が走り、横浜では日本初のガス灯がともった。当時は小学校教諭の初任給が8~9円とされていた時代だった。翌1873年6月3日付からは日刊紙となった。

▼犬養毅記者「戦地直報」が好評

 1877年、西郷隆盛が兵を挙げた西南戦争が起こる。国内最後の内乱では、慶應義塾の学生で、のちに首相となる犬養毅記者が戦地に赴いて執筆した「戦地直報」が好評だった。

▼題字が「報知新聞」に

 日清戦争が起こった1894年には「郵便報知新聞」から「報知新聞」に改称。これまでは政論色が強かったが、報道紙としての特色を前面に押し出していった。1897年には編集局に「探偵部」を新設し、元刑事を入社させて取材を行った。いわゆる現在の「社会部」の前身で、日々世の中で起きている出来事を報じた。

▼日本初の女性記者

 1898年、案内広告の先駆けとなる「職業案内」欄を新設。校閲係の募集記事を見て入社した松岡もと子(のちの羽仁もと子)は、のちに取材を手掛けるようになり、女性記者第1号としてインタビューや家庭の話題で女性読者を取り込んだ。

▼ズバリ的中!「二十世紀の予言」

 1901年1月2、3日付で展開した「二十世紀の予言」は、「七日間世界一周」や「写真電話」、「東京神戸間は二時間半を要し(中略)」、「自動車の世」などが見事に的中。21世紀を間近にした約100年後にテレビのニュース番組で話題となった。

▼箱根駅伝を創設

 時代は大正に移り、1920年に「日比谷箱根往復対抗駅伝競走」を創設。第1回は4校が参加し、有楽町の報知新聞社前をスタート地点とした。今ではお正月の風物詩である「箱根駅伝」の始まりである。

▼関東大震災にも耐えた近代社屋

 1922年、創刊50周年を記念して有楽町に完成した新社屋は、翌1923年9月の関東大震災でも無事だった。地震発生から1時間半後に手刷りで号外を発行し、新聞社としての使命を果たした。

▼激動の時代を経てスポーツ紙に

 第二次世界大戦中の新聞統制令により、読売新聞と合併、「読売報知」となる。戦後は夕刊紙「新報知」として復活したのち1949年に朝刊スポーツ紙となる。一方、プロ野球はこの年にセ・パ2リーグ制となり、報知新聞は野球が国民的スポーツへと発展していく一助となる。1951年には巨人が日本シリーズで優勝し、初の日本一に輝いた。

スポーツ紙転換第1号となった1949年12月30日付1面
1951年巨人初の日本一

▼衝撃の4三振デビュー

 1958年4月5日、立教大学から巨人入りした長嶋茂雄が開幕戦となった国鉄戦(後楽園)に出場。エース金田正一に4打席連続三振デビューとなったが、フルスイングする姿はたちまち人々を魅了。翌59年には大阪タイガース(現阪神)との「伝統の一戦」で天覧試合が行われ、長嶋は阪神・村山実から歴史に残るサヨナラ本塁打を放った。

1958年長嶋茂雄4三振デビュー

▼高度成長期を迎えスポーツ人気も最高潮

 1963年には大相撲で横綱・大鵬が6場所連続優勝。好きなものの代名詞として「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉が生まれるほど、スポーツは人々の生活に欠かせないものとなっていった。

▼大阪でも報知

 1964年2月23日付から大阪・北区野崎町に完成した報知新聞大阪本社で関西版を発行。一方、同年7月に開催された東京五輪では女子バレー、体操、柔道、水泳など16種目で金メダルを獲得。日本中が歓喜の渦に包まれた。同年8月には東京本社が銀座から千代田区平河町へ移転した。

大阪本社創刊第1号となった1964年2月23日付朝刊

▼日本人初の2階級制覇

 プロボクシングのファイティング原田は1962年10月10日、ポーン・キングピッチ(タイ)を破り19歳で世界フライ級王者となると、バンタム級に転向し1965年5月18日、エデル・ジョフレ(ブラジル)に勝利。日本人として史上初めて2階級制覇を果たした。当時の原田人気は凄まじく、62年10月11日付の初戴冠の新聞は、当時の報知新聞の最多部数記録を更新し71万7601部を発行。2階級制覇を報じた65年5月19日付は、スポーツ新聞史上初の100万部台となる103万2629部を記録した。これは、前年の巨人・王の4打席4本塁打時を16万部以上更新する大記録だった。

▼「日の丸飛行隊」と創刊100周年

 1972年、札幌で日本初となる冬季五輪が開催され、スキージャンプ70m級で笠谷幸生が金メダル。金野昭次が銀メダル、青地清二が銅メダルと表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」と呼ばれた。同年6月10日には報知創刊100周年を迎えた。

▼プロ野球史に輝くV9

 1965年から巨人が9年連続日本一を達成。川上哲治監督のもと、ON(王貞治、長嶋茂雄)をはじめスター選手がそろい、鉄壁の試合運びで巨人の黄金期を支えた。

1973年巨人V9
1973年巨人V9

▼我が巨人軍は永久に不滅です

 巨人のV9達成の中心選手として絶大な人気を誇った長嶋茂雄は、チームが10連覇を逃した1974年に現役引退を発表。引退セレモニーでは「わたしはきょうここに引退いたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です」の名言を残した。

長嶋引退

▼王貞治が世界新となる756本塁打

 1977年9月3日のヤクルト戦(神宮)で米大リーグ、ハンク・アーロンを抜く756本塁打を達成。王は1980年の現役引退までに世界記録となる868アーチを放ち、「世界の王」たる存在感を示した。

▼「普通の女の子に戻りたい!」

 1977(昭和52)年7月17日、人気絶頂にあった3人組グループ「キャンディーズ」が解散を電撃発表。ラン(伊藤蘭)が泣きながら叫んだ「普通の女の子に戻りたい!」はあまりに印象的なフレーズだった。1978(昭和53)年4月4日に行われた後楽園球場での解散コンサートには約5万人のファンが詰めかけて別れを惜しんだ。

▼延長18回の死闘

 甲子園でも激闘が生まれた。1979年8月16日、第61回全国高校野球選手権大会3回戦で星稜(石川)と対戦した箕島(和歌山)は延長18回の死闘をサヨナラ勝ちで制した。1点を追う延長16回2死、箕島・森川康弘の一塁ファウルグラウンドへのフライを相手野手が落球した後に起死回生の本塁打が飛び出したりと奇跡のような展開が続き、高校野球史に残る名勝負と語り継がれている。勢いに乗った箕島は公立高校としては史上初の春夏連覇を達成した。

▼山口百恵は結婚し引退

 オーディション番組からデビューした歌手の山口百恵は人気絶頂だった1979年10月に俳優の三浦友和と恋人宣言。翌1980年11月19日に結婚式を挙げ、芸能界を引退した。桜田淳子、森昌子と「花の中3トリオ」を組んでからわずか7年余りの活動だったが、人々に強烈な印象を残した。

▼「最強の男」が男泣き

 1984年のロサンゼルス五輪で柔道男子無差別級に出場した山下泰裕が金メダルを獲得した。2回戦で右ふくらはぎを肉離れ。軸足を故障する圧倒的不利な状況でもあきらめず、悲願を達成した。なお、1977年10月から1985年4月までの203連勝が「柔道における最多連勝記録」として2019年にギネス世界記録に認定された。

▼KKコンビが席巻

 1983年の第65回全国高校野球選手権大会に1年生ながら出場したPL学園(大阪)の桑田真澄と清原和博は、エースと4番コンビとしてチームを引っ張り優勝。5季連続出場し3年夏も優勝するなど優勝2回、準優勝2回、4強1回という圧倒的な強さを見せた。桑田は甲子園通算歴代トップ(学制改革以降)の20勝と同2位の通算6本塁打、清原は甲子園通算歴代トップの13本塁打と、高校野球史に残る活躍を見せた。

▼セ・パで2年連続3冠王

 1986年のプロ野球界はロッテの落合博満と阪神のランディ・バースがめざましい活躍を見せ、そろって2年連続の3冠王に輝いた。落合の自身3度(1982、85、86年)の3冠王は球界唯一、バースの打率3割8分9厘は歴代最高打率だ。

▼昭和の2大スーパースター、逝く

 1987年7月17日、俳優の石原裕次郎さんが亡くなった。享年52歳。長身と甘いマスクで瞬く間に映画界の看板俳優に上り詰めると、芸能プロダクションを設立し、ドラマ出演や歌手としても活躍の幅を広げた。1989 年6月24日には長年第一線で活躍した歌手の美空ひばりさんが死去。享年52歳。昭和を代表するトップスターが天国へと旅立ち、名実ともに昭和が終わりを告げた。

▼平成時代の幕開け

 「ウルフ」の愛称で人気の高かった大相撲横綱・千代の富士が1990年11月24日、九州場所で当時の歴代最多タイとなる804勝を挙げ、31度目の優勝を飾った。精悍な顔つきとストイックな姿勢で「ウルフフィーバー」を巻き起こし、幕内通算1045勝という大記録を残した。同年に東京本社は千代田区平河町から港区港南に移転。最新の印刷システムを導入し、宅配を含めた全域で紙面の完全カラー化に成功した。

▼高校野球界を揺るがした5打席連続敬遠

 1992年8月16日、第74回全国高校野球選手権大会(甲子園)の2回戦、星稜(石川)の4番・松井秀喜が明徳義塾(高知)戦で5打席連続敬遠。大会NO1スラッガーが一度もバットを振れずにチームも敗れた。球場は怒号とブーイングに包まれ、日本高野連や学校に抗議や脅迫の声が殺到し、社会問題へと発展した。

▼「ドーハの悲劇」から「ジョホールバルの歓喜」へ

 1993年10月28日、カタール・ドーハで行われたサッカーのアメリカW杯アジア地区最終予選で、日本は試合終了間際までイラクに2-1とリードしていたが、ロスタイムで同点に追いつかれてW杯出場を逃した。4年後の1997年11月16日にはマレーシア・ジョホールバルで開催された同予選でイランに勝ち、フランスW杯に悲願の初出場を決めた。

▼「安打製造機」の誕生

 1994年、オリックス・イチローがプロ野球史上初の200安打を達成。当時シーズン新記録となる210安打を記録し、連盟の表彰項目に安打数が追加された。イチローは2000年オフに日本人野手初のメジャーリーガーとなり、日米で輝かしい成績を残した。インターネットの隆盛にともない、同年に報知の公式ホームページが誕生した。

▼阪神・淡路大震災にも負けず

 1995年1月17日早朝、兵庫・淡路島北部沖を震源とする大地震が発生。6000人超の人々が犠牲となった。神戸をフランチャイズにしていたオリックスはこの年、「がんばろう神戸」をスローガンに掲げてリーグ優勝。翌96年には日本一に輝いた。

▼一時代をけん引した若大将

 1980年のドラフト1位で巨人に入団した原辰徳は、端正なルックスと実力でON後の巨人人気を支えた。通算382本塁打を放ち、1995年シーズン限りで現役引退。引退セレモニーでは「きょう、私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります」と語った。その後、監督として3度にわたり巨人を率いている。

▼平成の怪物

 1998年の第80回全国高校野球選手権大会では横浜(東神奈川)が史上5校目の春夏連覇を達成。エース・松坂大輔は夏にPL学園(南大阪)との延長17回の激闘で250球を投げ、決勝では京都成章(京都)を相手にノーヒットノーランで優勝を決めた。

▼夢のON対決実現

 2000年の日本シリーズでは、長嶋茂雄監督率いる巨人と王貞治監督率いるダイエー(現ソフトバンク)が対戦。巨人のV9時代をけん引した2人が指揮官として臨むシリーズは大きな注目を浴びた。試合は巨人が2連敗スタートとなったが、松井秀喜、高橋由伸といった主軸の活躍で4連勝と巻き返して日本一に輝いた。

▼サッカー日韓W杯で躍進

 2002年6月、サッカー日韓W杯を開催した。17回目で初の2か国&アジアでの開催となった。日本は勢いに乗ってグループリーグを突破、史上初めて16強入りした。以来、22年カタール大会まで7大会連続出場を決めている。

▼「チョー気持ちいい!」

 2004年のアテネ五輪で、北島康介が競泳男子100メートル平泳ぎで金メダルを獲得。レース直後のインタビューで飛び出した「チョー気持ちいい!」は同年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれた。2008年の北京五輪でも同種目で2大会連続の金メダル。レース後は感極まり「なんも言えねえ…」と声を詰まらせた姿が印象的だった。北嶋は200メートル平泳ぎでも2大会連続金メダル。五輪で2大会連続2種目を制覇したのは日本人史上初の快挙だった。

▼「史上最強馬」ディープインパクト3冠

 2005年、ディープインパクトがシンボリルドルフ以来2頭目となる、無敗で皐月賞、日本ダービー、菊花賞の3冠に輝いた。相棒の武豊騎手をして「走っているというより飛んでいる感じ」と言わしめ、ラストランとなった翌06年の有馬記念で有終Vを飾った。

▼ハンカチ王子が頂点

 2006年の第88回全国高校野球選手権大会では、早実(西東京)のエース・斎藤佑樹が躍動した。アイドル顔負けのマスクと、マウンド上でユニホームのポケットからタオルハンカチを取り出して汗をふく姿が話題となった。決勝では、2番手で登板した駒大苫小牧(南北海道)のエース・田中将大と一歩も譲らない投手戦となり延長15回引き分け再試合。齋藤は翌日も完投し、夏3連覇を目指した駒大苫小牧を破った。

▼巨人「メークレジェンド」最大13ゲーム差逆転V

 2008年のペナントレース。原辰徳監督のもと、開幕ダッシュに失敗して7月には首位・阪神と最大13ゲーム差あったが、夏場から驚異的な追い上げを見せ、9月には12連勝(引き分け挟む)するなど神がかりな強さで逆転優勝。1996年に長嶋茂雄監督のもと、11・5ゲーム差をひっくり返した「メークドラマ」を超える「メークレジェンド」を完成させ、リーグ連覇を達成した。
大阪本社は同年、北区本庄西から同野崎町の読売大阪ビルに移転した。

▼東日本大震災で大きな被害

 2011年3月11日、宮城・三陸沖を震源とした東日本大震災が発生。経験したことのない大津波により、東京電力原子力発電所の事故を誘発。死者1万8000人超という甚大な被害をもたらした。被害の大きかった宮城県に本拠を置く楽天は、震災から2年後の2013年、球団創設10年目にして初の日本一となり、人々に勇気を与えた。

▼世界的人気のプリンスが2大会連続金メダル

 男子フィギュアの羽生結弦が2014年ソチ、2018年平昌と2大会連続金メダル。史上最年少で国民栄誉賞を受賞した。人々を魅了する美しい滑りと完成度の高い技で、国内だけでなく世界中から注目を集め続けている。

▼歴史の転換期へ

 2016年末に5人組グループ・SMAPが解散。国民的人気グループの突然の解散は世間を驚かせた。2018年9月には歌手の安室奈美恵が引退。天皇陛下の生前退位により「平成」が終わりを告げるのに合わせるように、芸能界だけでなくスポーツ界にも変化が相次いだ。日本、米大リーグで輝かしい功績を残したイチロー、女子レスリング2大会連続金メダリストの吉田沙保里らトップアスリートが現役引退を表明し、時代の変わり目を感じさせた。

▼ラグビー日本代表が歴史的快挙

 2019年に開催されたラグビーW杯日本大会では、日本代表が強豪・アイルランドを破るなど初の8強入りと大躍進。それまでラグビーになじみのなかったファンも増え、一大ブームとなった。

▼新時代のスター

 2006年高校生ドラフト1巡目で巨人に入団した坂本勇人は、プロ1年目から試合に出場。巨人では松井秀喜以来となる10代での先発出場を果たすなど、早くから頭角を現して攻守ともにチームに欠かせない存在となった。2020年11月8日のヤクルト戦(東京ドーム)で通算2000安打を達成。31歳10か月での達成は榎本喜八に次ぐ史上2番目の年少記録、右打者では最年少だった。

▼日本人が世界で大活躍

 2021年4月に開催された米男子プロゴルフマスターズで松山英樹が日本人初優勝を果たした。新型コロナウイルス感染症の影響により1年遅れで開催された東京五輪では史上最多のメダル58個獲得。米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平が投打二刀流の活躍でア・リーグMVPに輝くなど、世界に名をとどろかせた年となった。報知も時代の変化に合わせ、YouTubeチャンネルをスタートさせた。

▼1年遅れで東京五輪・パラリンピック開催

  新型コロナウイルス感染症の影響により1年遅れで開催された東京五輪では史上最多となる58個(金27、銀14、銅17)のメダルを獲得。卓球女子の伊藤美誠は混合ダブルスで金、団体女子で銀、女子シングルスで銅。新種目のスケートボード女子ストリートで西矢椛が13歳330日で日本勢最年少の金メダル。同パークでは開心那が12歳343日で銀メダルを獲得するなど若い世代の活躍も光った。

▼記録を塗り替えた大横綱

 2021年9月、大相撲の白鵬が電撃引退。優勝回数45、全勝優勝回数16、横綱在位場所数84、通算1187勝、幕内通算1093勝、横綱899勝など、数々の記録を塗り替えてきた名横綱は、引退会見で「全部出しきった」とほっとした表情を見せた。

▼そして2022年、再び両国から未来へと

 2022年6月10日、報知新聞は創刊150周年を迎えました。時を同じくして、東京本社は創刊当時に社屋があった両国へと拠点を移します。いつの時代も「歴史」の瞬間には必ず報知新聞があり、ニュースをいち早く届けようと奔走してきました。その思いは今も変わりません。読者の皆様に毎日とびきりのワクワク、ドキドキ、感動をお届けしていきます。

今をのこす、夢をつなぐ―

 いくたびもの苦難を、熱意と創意工夫で乗り越えてきた先人たちの思いを胸に、この先も決して立ち止まらず、前を向いて走り続けます。

▼時代を見続けた秘蔵写真展

 報知新聞創刊150周年を記念し、これら歴史的瞬間をとらえた写真を一堂に集めた「瞬間の記憶 ~創刊150周年記念スポーツ報知報道写真展~」を東京・目黒の東京都写真美術館で開催します。入場無料です。他では見られないレアな写真を多数展示予定。たくさんの皆様のお越しをお待ちしております。

写真展「瞬間の記憶」

日時:2022年7月16日(土)~31日(日)
場所:東京都写真美術館
   (〒153-0062 東京都目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内)
開館時間:火~日曜 10時~18時