•  スポーツ報知のWebサイト限定コラムがスタートしました。最前線で取材する記者が、紙面では書き切れなかった裏話や、今話題となっている旬な出来事を深く掘り下げてお届けします。皆さんを「ほーっ!」とうならせるようなコラムを目指して日々配信しますので、どうぞお楽しみください。

わずか4坪で年商1億円超え 立ち食い焼き肉店の店長で成功した元巨人・中村隼人さん

2018年2月6日11時0分  スポーツ報知
  • 「立喰い焼肉 治郎丸」新宿店で店長を務めている中村隼人さん
  • 日本ハム時代の中村隼人さん
  • わずか4坪だが店の前には行列が絶えない
  • 巨人移籍後の中村隼人さんはバッサリとひげをそり落とした
  • プロ初登板初先発で完封勝利を挙げた中村隼人さんの活躍を報じるスポーツ報知(2001年6月3日付)

 日本一の歓楽街と呼ばれる東京・新宿の歌舞伎町に、中村隼人さんの店はある。カウンターのみで広さは4坪、店の奥から顔を出した隼人さんは、人なつっこい笑顔を見せた。大きな目、ひげを生やしたいかつい風貌は、元日本ハム、巨人で投手として活躍していた当時と変わらないが、マウンドで見せていたギラギラした目つきは陰を潜め柔和なイメージだ。

 「ここで3年半ですね。2年くらいは休みなしで働きました」。2014年7月22日にオープンした「立喰い焼肉 治郎丸」新宿店の店長を務めている。座席はなく、立ち食いスタイルで肉1枚から食べられる“究極の一人焼き肉”として注目を集め、ネット、テレビで話題を呼び注目を集めた。1か月の最高の売り上げは1670万円。最低でも毎月1000万円以上を売り上げており、4坪の店で年商1億超えをキープし続けている。

 きっかけは社会人野球時代の交友関係にあった。本田技研(現Honda)でプレーしていた隼人さんは、3年目の2000年の都市対抗に川鉄千葉(現JFE東日本)の補強選手に選ばれた。そこである選手と出会う。成東、専大を経て川鉄千葉に進んだ投手・江波戸千洋さんだった。同級生で高校時代に同じ野球雑誌に掲載された縁もあり、すぐに意気投合した。「自分が補強されたせいで、江波戸は(都市対抗の)メンバーから外れてしまったんです」。それでも隼人さんがプロ入りしてからも交友は続いた。江波戸さんは隼人さんへ夢を語った。「店をやりたいんだよね。プロを終わったら来て欲しい。来れるように大きくしておくから」。隼人さんがプロで活躍している間に、江波戸さんは外食業界で、居酒屋、そば、パスタ、ラーメンなどを次々と展開し業務を拡大していた。

 江波戸さんが社長を務める越後屋に入社した隼人さんは、「(次は)九州居酒屋をやるような話を聞いていたら、焼肉をやるってことになって。『俺、焼き肉得意じゃん』って、現役時代に色々食べていたし」。中目黒の焼き肉店「まんてん」で3か月修業。地元・長崎の友人を通じて長崎和牛の入手ルートを確保するなど、肉に関する調達などは、隼人さんが切り開いた。現在は直営店3店、FC店8店に広がり、同じような形態の店も増えた。「1枚売りの立ち食い焼き肉」は江波戸社長のアイデアだ。「最初は(客が来なくて)2か月くらい、店の前でボーッとしていた。(行き交う人に)あとで『人形かと思いました』と言われるくらい」。それでも店を訪れた人が投稿したネットの記事で火がつき、テレビ局が取り上げると、店の前に一気に行列が出来、多忙な日々が続いた。

 巨人から戦力外を受けたのは2005年オフ。その時も江波戸さんの紹介で東京・神田の居酒屋の店長を3か月務めた。その後、誘いを受け06年5月にクラブチーム「千葉熱血MAKING」に選手兼コーチとして球界復帰すると、野球の虫が騒ぎ出した。6月に台湾プロ野球・兄弟に入団したが在籍2週間、わずか2試合の登板で退団。11月に楽天の入団テストを受けるが不合格となり、引退を決断した。

 引退後は、巨人でチームメートだった元木大介さんに誘われ1年ほどマネジャーを務め、知人の紹介で東京・湯島で「サパークラブ」を経営した。「あまりお酒が好きじゃなかったんですね」。3年更新の店舗で、1回更新し6年間務め、店を閉めた。

 隼人さんのプロ野球でのデビューは華々しかった。ルーキーイヤーの01年6月2日、オリックス戦(GS神戸=現ほっともっと神戸)でプロ初登板初先発で初完封勝利を挙げた。プロ野球では27人目、新人では13年ぶりの快挙だった。「あのときは人生でももう(これ以上が)ないくらいすごく調子が良かった」。その年はリーグトップの3完封を含む6勝を挙げると、翌年は7勝(11敗)。順風満帆かと思えた野球人生は3年目、大島康徳監督からトレイ・ヒルマン監督に代わると、潮目が変わった。

 球数を制限するヒルマン流に納得のいく成績を残せない。指揮官に直談判して「先発は100球投げればいいというアメリカの野球には、日本の魂はないんです」と訴えた。この年、1軍ではわずか4試合の登板に終わった。2軍では11勝をマークしイースタン・リーグで優勝したが、気持ちは晴れなかった。

 活躍の場所を求めてトレードを志願し、04年6月2日に巨人に移籍。くしくも鮮烈デビューを果たした「6・2」に新天地に移った。巨人での初登板では中継ぎで3者連続三振と圧巻のピッチングをみせた。日本ハム時代にも親しんでいた東京ドームだが“景色”が違った。「(観客の)声の大きさも違ったし、スタンドが(いすの)青色じゃなくて(観客で)黒くなっていて、おお、すげえって」。そして注目度も違った。「田舎の知り合いから投げるたびに電話がかかってきて『今日も出ていたね』って。日本ハムでの完封デビューも思い出だけど、巨人に移籍して良かったです」。移籍イヤーは中継ぎで38試合に登板したが、翌年アクシデントが襲った。

 開幕して数日後、アップ中に腰に激しい痛みを覚えた。「最初、元木さんが乗ってきたのかと思った。でも振り返っても誰もいなくて…」と明るい隼人さんはその瞬間を冗談ぽく語った。サイドステップの最中に痛みが走った。「慣れない中継ぎで疲労の蓄積もあったんですかね。中継ぎの楽しさも感じてたんですが…」。球速は戻っても痛打されることが増え、その年限りで戦力外通告を受けた。その足で長崎の実家へ行った。父親の輝久さんに「終わっていいか?」とたずねると輝久さんは「俺は巨人ファンだったから、もういいよ。ありがとう」と答えたという。「父ちゃんが巨人ファンだったことも知らなかったし、泣きそうになった」。親子として交わしたわずかな会話に、父親のねぎらいを感じ、そして少しは親孝行を出来ていたことを知り安堵(あんど)した。

 現在はカウンター奥の限られたスペースで、肉を切り提供する。肉の部位や焼き方、適したタレの選択など、事細かに説明する。ぶっきらぼうな物言いにも聞こえるが自然と会話が弾む。会話を求める人とそうではない人を瞬時に見分ける。豪快に見えながらも打者に応じてクレバーなピッチングをみせた現役時代を彷彿(ほうふつ)とさせる姿がそこにあった。隼人さんの人柄に常連客が増え、店の中には笑いが絶えない。

 今後の夢を聞いた。「九州へ店を持って行きたい。和食でも焼き肉でもいい。最初は福岡でそして地元・長崎で。そして究極の夢は高校野球の監督をやりたい。島の高校で甲子園に行きたい」。地元・長崎に戻り離島の子供たちと甲子園へ―。遥かなる夢への挑戦はまだまだ続いている。(コンテンツ編集部・高柳 義人)

 ◆中村 隼人(なかむら・はやと)1975年8月22日、長崎・諫早市生まれ。42歳。中学時代は捕手、長崎日大高2年春から投手に転向し、3年春は同校を初の甲子園出場に導いた。センバツ3回戦の鳥取西戦で7回まで無安打に抑え、内野安打1安打で完封するなど8強進出。夏は2回戦敗退。創価大ではエースとして東京新大学リーグで入学から卒業まで8連覇。社会人野球の本田技研(現Honda)に進み、2000年ドラフト4位で日本ハム入団。1年目は初登板初勝利を完封で飾るなどリーグトップの3完封を含む6勝を挙げた。2年目から登録名を「隼人」に変更。04年6月にトレードで巨人に移籍し、「中村隼人」に戻す。中継ぎとして活躍も05年に戦力外通告を受けた。その後、台湾・兄弟でプレーも2試合の登板で退団。現役時代のサイズは183センチ、93キロ。右投右打。NPB通算88試合、15勝18敗、1セーブ、防御率4・32。弟・北斗はサッカーJリーグの長崎に在籍。

セカンドキャリア
コラム
今日のスポーツ報知(東京版)