【ヒルマニア特別編】野球殿堂の特別表彰に池田恒雄賞増設を

スポーツ報知
野球殿堂入りを果たした(左から)立浪和義氏、権藤博氏、脇村春夫氏

 「ヒルマニア」は、スポーツ報知で野球を担当し続けて46年の蛭間豊章記者が、マニアックなネタをお送りします。

 今年の野球殿堂、第5代高野連会長の脇村春夫氏が当選。その中で昨年3票だった漫画家・水島新司さんが5票に伸ばした。今年で60周年となった野球殿堂。特別表彰について考えてみたい。

 

 1959年第1回野球殿堂入りの候補者でその後も殿堂入り出来なかったのは、1896年に横浜外国人チームを破った一高の名一塁手・宮口竹雄と明大時代にシーズン2度のノーヒットノーラン、1950年初の日本シリーズで毎日オリオンズを優勝に導いた湯浅の2人だけだ。宮口に関して私は何とも言えないが、湯浅禎夫を推したい。オリオンズを指揮していた1952年の平和台事件、遅延行為でノーゲームを策したとされて辞任に追い込まれた。これがなければすんなり殿堂入りしているはずと言われているがアマ時代の剛腕ぶりと初制覇は称賛に値する。背広組では赤嶺昌志。戦前は名古屋金鯱軍、戦後は中日ドラゴンズ代表として選手の引き抜きなどダイナミックな移籍劇で“赤嶺旋風”を巻き起こし、2リーグ分裂後は野球協約の起草委員として球界に貢献。その後は野球体育博物館設立に尽力された方だ。

 プロ野球オーナーでは短命に終わった高橋ユニオンズのオーナーだけでなく、戦前のイーグルスなどのスポンサーとなっていた高橋龍太郎や1947年に国民リーグを立ち上げ宇高レッドソックスのオーナーから、西日本パイレーツ、西鉄ライオンズではスカウトとして引き抜きや新人獲得に活躍しライオンズ黄金時代の礎でもあった宇高勲なども歴史的人物として再評価してもいいのではないか。近年ではライオンズを買収し自前のスタジアムも作った堤義明なども、その後の行いはともかく、他の名目上のオーナーでは出来ないことをやったという意味でも選ばれてもおかしくないのではなかろうか。

 1991年筒井修以降出ていないプロ野球審判員では、日本シリーズ、オールスター戦などを含めて、史上最多の3902試合をジャッジした岡田功。1969年日本シリーズ、読売ジャイアンツ土井正三のホームスチールのセーフ判定は、球史に残る名判定だった。アマチュア監督では太田誠。駒沢大時代は2度首位打者、電電九州では大会史上最長の延長22回試合のサヨナラ本塁打を始め都市対抗に6度出場し活躍し駒沢大監督として通算501勝、リーグ優勝22回、5回の大学選手権優勝。今年久しぶりに候補に入ったが、六大学偏重の殿堂と言われているだけに、東都大学などの連盟関係者もピックアップしていって欲しい。

 最後にメディア関係者。私はことある毎に書いているがベースボール・マガジン社社長として野球界に多大な貢献をした池田恒雄の存在だ。1989年に野球殿堂入りしているが、多くの偉人らから一歩下がって野球殿堂入りせずに、米国のJ・D・スピンク賞のような活字メディアに従事する関係者表彰を提唱して、“池田恒雄賞”でも創設してくれれば良かった。

 純然たるメディア関係者の殿堂入りは池田以外では、戦前の国民新聞記者として健筆をふるった太田茂(四洲)が1972年に、活字メディアではないがアナウンサーとして志村正順が入っただけだ。ここには、「プロ野球三国志」を始め多くの野球書籍を発表した安藤教雄(大和球士)、日本テレビのアナウンサー、その後もライターとして未だご健在の越智正典、戦前戦後に野球史家の第一人者だった斎藤三郎。プロ野球選手として活躍した後に野球評論家として新聞、放送で、特にあの名調子プロ野球ニュース進行役の佐々木信也も忘れてはいけない。

 また、1960年代のパ・リーグ事務局トリオ、宇佐美徹也、千葉功、伊東一雄(パンチョ伊東)はいずれも1970年代以降のプロ野球人気を後押した3人だ。前記2人はプロ野球の記録の世界を、新聞、雑誌という媒体でファンに知らしめて興味を倍加させ、伊東はメジャーの世界を日本人に広く伝えた第一人者であり、あのドラフト会議の名進行役ぶりでも人気を博した。そして漫画家の水島新司もここに入っておかしくない存在だ。まだまだ多くのライターやアナウンサーなど多くの野球を側面からバックアップした方々がいた。しかし、彼らを殿堂入りさせようという気配すらない。これらの人を毎年1人ずつ“池田恒雄賞”として選んでいけば、野球メディアはよりレベルの高いものに育っていったはずである。     (敬称略)

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