元近鉄外野手の長岡学さん、南海モデルユニの大宮七里ボーイズ監督で奮闘〈上〉野球人生語る

スポーツ報知
長岡学さん

 埼玉の中学生チーム・大宮七里ボーイズ監督の長岡学さん(49)は、1987年ドラフト5位で市川口高(昨春から統合で川口市立高に校名変更)から近鉄に入団。1軍の試合に出場することなく92年に引退したが、高校、プロの8年間を「様々な学びを与えてくれた、かけがえのない時間」と振り返る。

 監督は近鉄出身なのに、大宮七里ボーイズのユニホームはなぜか80年代後半の南海(現ソフトバンク)モデル。そのわけを長岡さんは「自分は緑が好きで、高校時代から南海のユニホームが気に入っていた。実はその頃、近鉄はあまり好きでなかったんです」と苦笑しながら説明した。

 強打を誇った長岡さん。開眼のきっかけは市川口高時代の内山清監督(故人)のアドバイスだったという。「入ってすぐ、練習で『もう少しバットを後ろに引いて構えたら』と言ってくれた。その通りにしたら打球が今までとまったく違ったし、よく飛んだ。そこから打ちまくりました」。1年夏からレギュラーで活躍し、“高校通算30本塁打”をマーク。「新聞には30本と書かれましたが、実は50本以上打っています」。だが、その長打力がプロで通用しなかった。

 木のバットに苦しみ飛距離が出ず「1年目のキャンプはほかの選手が軽く振ってスタンドインしているのに、自分は外野へ運ぶのがやっとでした」。思わぬ事も重なる。88年当時の近鉄外野陣といえば淡口憲治氏(元巨人打撃コーチ)らベテランが多く、長岡さんはスカウトから「すぐにチャンスがもらえる」と言われていた。だが、ショートの村上隆行氏(現中日打撃コーチ)がセンターにコンバートされ、6月には中日からラルフ・ブライアント氏が移籍してきた。「ウエスタンで対戦したとき、(当時の近鉄本拠地で中堅120メートルの)藤井寺球場のバックスクリーンを越えるホームランを2発打ちました。三振が多すぎて放出されたようですが、とんでもない選手が来たなと思いました」。長岡さんの予想通り、中日で1軍出場がなかったブライアント氏はその年、わずか74試合で34本塁打を放って開花し、95年に退団するまで3度のホームラン王に輝いた。

 2軍暮らしが続いた長岡さんは、俊足を生かしたアベレージヒッターを目指そうと、当時の1番で盗塁王4度の大石大二郎氏(現ジェイプロジェクト監督)が使っていた太くて重いバットを試した時期もあったが、結果が出なかった。「コーチの言う通りにしないと試合に出してもらえないと思いました。それでもうまくいかず、いろいろ考えているうちに自分のバッティングを見失った。2軍の雰囲気に慣れてしまったのもいけなかったですね」と悔しがる。そういった経験も伝えようと、自ら発起人となって10年に大宮七里ボーイズを設立したが、そこでも困難が待ち受けていた。(構成・芝野栄一)=つづく=

 ◆長岡 学(ながおか まなぶ)1969年11月5日生まれ、49歳。埼玉県川口市出身。左投げ左打ち。市川口高時代に強打の外野手として注目され、近鉄に入団したが1軍出場のないまま退団。会社勤めの傍ら2010年に大宮七里ボーイズを発足させ、監督に就任した。18年ベースマン杯埼玉県支部大会などで優勝している。

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