大谷翔平、若き瞳に宿っていた強固な意志…元担当記者が語る運命のドラフト思い出のシーン

スポーツ報知
日本ハムの指名を受けるもメジャーへ決意を語る大谷

 いよいよ運命のドラフト会議が近づいてきました。当日、指名された選手の会見場では喜びや戸惑い、そして涙とさまざまな人間模様が渦巻きます。今週の「週刊報知高校野球」ではスポーツ報知の記者3人が、心に残るドラフト会見のシーンについて「見た」でつづりました。

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 冷たい雨が降っていた。

 花巻東に集結した報道陣は傘をさし、携帯のワンセグ画面を見つめた。午後5時。ドラフト会議の生中継が始まった。12年10月25日。その年の主役となるべき大谷翔平は、運命の瞬間を会見場ではなく、同校のグラウンドで迎えた。続々と1位選手が読み上げられる頃、雨が降り注ぐ中でびしょぬれになりながら、キャッチボールに没頭していた。

 既にメジャー挑戦を表明していた。それでも日本ハムは諦めなかった。事前に1位指名を公表した上で、敢然と大谷獲得に向かった。

 会見は室内練習場で行われた。14分間に及ぶ質疑応答で、大谷は7度も「自分の気持ちは変わらない」と繰り返した。私がメジャー挑戦の決断が変わる可能性について尋ねると「自分自身の考えとしては、ゼロです。向こうで頑張ると決めましたし、今はアメリカでやりたい気持ちしかないです」と澄んだ瞳で言った。

 私はデスクに一部始終を報告した。ドジャースの小島圭市スカウトが、高1の頃から大谷を高く評価し、熱心に足を運び、大谷が恩義を感じているとも聞いていた。翌日の紙面には「決意は強固 交渉は難航必至 翻意は困難か」との見出しが躍った。花巻市内のスポーツ紙は全紙、完売した。

 そこから先の栗山監督、山田GM、大渕スカウト部長らの入団交渉における奮闘と創意工夫はご存じの通りだ。12月9日には日本ハム入りを正式表明。ほとんどの球界OBが不可能と断じた投打二刀流を見事に成し遂げ、北海道でプレーした5年間では規格外の活躍でファンに大きな夢を与えた。あらためて日本ハムのアイデアに育成力、遂行力には敬意を表するしかない。

 しかし、たまに思う。あのまま海を渡っていたら、現在の大谷はどうなっていたのだろう。投打のどちらかに専念した上で、メジャーの世界で規格外の成績をマークしていただろうか。

 10月の雨に打たれるたび、若き瞳に宿っていた強固な意志を思い出し、そんなことを夢想してしまう。(野球デスク・加藤 弘士)

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