Dバックス・平野佳寿インタビュー…「自信」の75登板、来季「今年以上を」

スポーツ報知
アシックスジャパン本社で大谷、ダルビッシュらの写真パネルを背に、活躍を誓ったDバックスの平野(カメラ・頓所 美代子)

 ダイヤモンドバックスの平野佳寿投手(34)が29日、本紙のインタビューに応じ、激動の1年目を振り返った。今季は日本人メジャー投手のシーズン最多75試合に登板し、4勝3敗3セーブ、防御率2・44。リーグ3位の32ホールドをマークした。34歳を迎えても力強い投球を続けるオールドルーキーが1年目の苦労やメジャーの怖さを語りつつ、来季の目標に75試合以上の登板を掲げた。(取材構成・小谷 真弥)

 大躍進のシーズンだった。平野は34歳で挑戦したメジャー1年目を充実した表情で振り返った。

 「自分でも、よく投げられたなと。チャレンジする意気込みもあったけど、不安もあった。(当初は目標など)思い描くことがなかった。どうなるか想像がつかなかったです。そこで75試合を投げられたのは良かったです」

 数々の快記録を作った。シーズン75試合登板は日本人歴代1位。5月6日アストロズ戦から7月3日カージナルス戦まで26試合連続無失点をマーク。これは球団新人記録&日本人投手歴代2位だ。記録よりもメジャーで投げる自信をつかんだことが大きかった。

 「抑えているのは自信になりました。(無失点記録中は)できるだけ続けることがチームにも僕にもいい。その気持ちだけでした。(記録は)記者さんから知ったこともあった。正直、球団記録とか知らなかったので」

 メジャーの怖さも味わった。今季の6被弾のうち5本が下位&控え(8番打者3本、代打2本)。甘く入れば、どこからでも被弾する。オリックス時代にはない感覚だった。

 「気を抜いていたわけではないが、控えでもパンチ力を感じました。日本では『本塁打はないだろう』と投げていたが、簡単に本塁打になる。シーズンを通して感じました」

 全てが順風満帆に進んだわけではない。オープン戦には9試合登板し、防御率6・00。乾燥するアリゾナの気候に、滑りやすいとされるメジャー球。ボックスバーガー、ブラッドリーとの守護神争いが注目される中、エンゼルス・大谷と同じように球の対応に苦しんでいた。「焦らない」と胸に刻み、黙々と調整を進めた。

 「難しかったですね。でも、そこで焦らず。結果も出てないから何とも言えないけど、球団、監督が使ってくれる姿勢を見せてくれていた。そこがありがたかったです」

 先人の教えも生きた。スプリングトレーニング中に、古巣・オリックスOBでシニアアドバイザーを務める長谷川滋利氏(50)が平野を視察。メジャー9年間で通算517登板した先輩から“鈍感のススメ”を説かれたという。

 「調子が上がらない時に『絶対に大丈夫』と激励してくれました。『アリゾナだから(球が滑るのは)仕方ない。(Dバックスの)本拠地はアリゾナだけど、この時期だけはしょうがない』と。(聞いた時は)『ホンマかな』と思ってたけど、結果的に75試合。心強いアドバイスでした」

 シーズン終盤には守護神・ボックスバーガーの不振により抑えを任されたが、「(抑えは)チームがやってくれと言われたら行くだけ。難しさと楽しさを覚えたのは中継ぎ」とポジションにはこだわらない。

 「目標は立てないけど、今年以上を。60、70試合を投げて、そこまで来たら75試合を抜けるように。そういう気持ちです」

 来季は今季作った75試合登板に近づき、そして超える。タフネス右腕として投げ続けるつもりだ。

 〇…平野が来季から使用するグラブのモデルを披露した。黒のグラブのウェブ部分には出身地である京都・宇治市の市章をモチーフに、名前のイニシャル「Y」を大きく配置したデザインを新たに採用。この日は都内のアシックスジャパン本社で行われた展示会に参加し、「地元も喜んでくれると思う」と話した。

 ◆平野 佳寿(ひらの・よしひさ)1984年3月8日、京都府生まれ。34歳。鳥羽高でセンバツ2回出場。京産大を経て、2005年大学生・社会人ドラフト希望枠でオリックス入団。プロ入りから4年間は先発で計18勝36敗。10年に救援に転向し、11年に最優秀中継ぎ、14年に最優秀救援のタイトル獲得。昨オフ、海外FA権を行使し、2年600万ドル(約6億8000万円)でDバックスに移籍した。188センチ、84キロ。右投右打。

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