鹿賀丈史、“名付け親”浅利慶太さん悼む「先生がいなければ今の僕はいない」

スポーツ報知
浅利慶太さんとの思い出を目に涙をためて話す鹿賀丈史

 劇団四季の創立メンバーの一人で演出家の浅利慶太さんが7月13日午後5時33分、悪性リンパ腫で都内の病院で亡くなったことが18日、分かった。85歳だった。1972年から80年まで劇団四季で活躍した俳優の鹿賀丈史(67)が同日都内で会見を開催し、恩師への感謝の思いを涙ながらに語った。

 鹿賀は73年、浅利さんオリジナル演出の舞台「イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)=スーパースター」で初舞台。稽古場で浅利さんから「お前やるか?」と言われ、主役デビューした。当時を振り返り、「一緒に勉強した記憶がすごくあります。音楽性の高いミュージカルですから、一緒にLPレコード聴いて一緒に勉強した」。さらに、「浅利先生はLPレコードをすり減るほど勉強されて、一つの作品に対する情熱は強烈なパワーがありましたね」と懐かしげ。芸名“鹿賀丈史”も浅利さんが「鹿のように俊敏で澄んだ目をしていなさい」という意味を込めて名付けたという。「先生がいなければ今の僕はいない。その言葉は忘れられないし、大事にしていきたい」。

 その後、鹿賀は「ウエスト・サイド物語」、「ヴェニスの商人」などに出演し、劇団のトップスターとして活躍していたが、78年「カッコーの巣をこえて」への出演を機に役者としての幅を広げるために退団を決意した。その後、退団の思いを伝えても「少し間があって『いいんじゃないか』と言ってくださった」。止めることなく、背中をおしてくれたという。

 退団後も浅利さんは鹿賀のよき師匠であることには変わりなかった。2000年、舞台「マクベス」の出演を控えていた鹿賀は偶然銀座で浅利さんと再会。「マクベスをやれるのか?」と浅利さんから厳しい言葉をかけられたというが、「そのすぐ後に(浅利さんから)直筆の手紙を頂戴した。酒を飲んできついことも言ったけど、ごめんって書いてあった」と振り返ると、鹿賀は思わず涙を流した。白いハンカチで涙を拭いながら、「劇団やめて随分たっていますが、気にかけていただいて、見ていてくださっていたんだな。感謝の気持ちでいっぱいですね」と感謝。最後に亡き恩師へ「もっと新しい作品もおやりになる様子も聞いていたので、残念な思いもあると思いますが、長い間ご苦労さまでした。これまで多くの人間たちを輩出してきた素晴らしい力にありがとうございました」としのんだ。

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