鹿賀丈史、名付け親・浅利慶太さんとの別れに涙 市村正親「ミニ浅利になる」

スポーツ報知
1979年、劇団四季「ジーザス・クライスト=スーパースター」終演後に大平正芳首相(当時、左から2人目)と握手する鹿賀丈史(同3人目)

 役者としての道を示してくれた浅利慶太さんとの別れに、まな弟子たちも悲しみにくれた。かつて劇団四季の看板スターで、芸名も浅利さんに名付けられた鹿賀丈史(67)は、恩師と過ごした日々を思い涙。市村正親(69)も「ステーキの横のクレソン」と独特の言い回しで激励を受けたことを懐かしんだ。

 浅利さんが多くの希望を託し、芸名にも思いを込めた鹿賀の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。72年に四季入りし名付けられた「鹿賀丈史」は、鹿賀の出身地・石川の「加賀」に引っかけて「鹿のように俊敏で、澄んだ目をしていろ」という意味。「先生がいなかったら今の僕はいない。四季で始まった役者人生。教えを大事に、これからも進んでいきたい」。45年以上の時を超え、鹿賀は20代前半の劇団員に戻ったように、澄んだ目で、静かに泣いた。

 鹿賀は入団2年目の73年、ミュージカル「イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)=スーパースター」で華々しく主演デビューを飾った。「稽古場で『おまえ、やるか』って」。同作は日本のミュージカル史に残る作品になり、鹿賀もスーパースターへ飛躍を遂げた。

 看板俳優として多くのミュージカルに出演した鹿賀だが、78年の「カッコーの巣をこえて」の出演がきっかけでストレートプレイへの魅力に開眼し、80年に退団を決意。長野の別荘まで直談判に行くと「少し間があって、『いいんじゃないか』と言ってくれた」。あえて追わずに、鹿賀の可能性を信じてくれたという。

 2000年に銀座の飲食店で偶然顔を合わせたのが最後になってしまった。舞台「マクベス」に出演を控えていた鹿賀は浅利さんから「おまえにやれるのか?」と言われたというが、その後直筆の手紙が届いた。「『酒を飲んできついことも言ったけど、ごめん』って。『ごめん』って…。劇団をやめても気にかけて、見てくださっていたんだな、と。感謝の気持ちでいっぱいです」と何度もハンカチで涙をぬぐった。

 市村は大阪・梅田芸術劇場でミュージカル「モーツァルト!」の千秋楽を迎え、その後、新幹線で都内の会見場に駆け付けた。恩師の教えに感謝し、「本当に偉大な人でした。名優・市村が誕生した」としのんだ。

 2016年夏に、都内の稽古場で再会したのが最後となった。稽古場をのぞくと「おーっ、イチ」と、笑顔で呼ばれ、15分ほど話した。「今度、お前の芝居を見に行きたい」と気にかけてくれたという。

 市村は1973年、劇団四季「イエス・キリスト=スーパースター」のオーディションに合格し翌年に入団したが、端役が多かった。入団4年目、浅利さんに主演が多かった鹿賀と比較され「ステーキの横のクレソン」と評された。「『クレソンはなくちゃいけないものなんだ』と言われたけど、俺は葉っぱか…と。でも太陽に月があるように、月の演技をしていけばいい」と“転機”を振り返り、「最近はミニステーキくらいになったかな。僕なりの芝居を後輩につなげミニ浅利になる」と話し、場を和ませた。

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