浅利慶太さん死去…9月公演「アンドロマック」は遺言のような細かな演出プランが

2018年7月19日6時0分  スポーツ報知
  • 日本のミュージカル発展に情熱を注いだ浅利慶太さん

 「劇団四季」創立メンバーの一人で、98年長野冬季五輪の開閉会式の総合プロデュースを手掛けた演出家の浅利慶太(あさり・けいた)さんが7月13日午後5時33分、悪性リンパ腫のため都内の病院で死去していたことが18日、発表された。85歳。

 「キャッツ」「ライオンキング」など日本にミュージカルを根づかせ、ロングラン公演を成功させた。葬儀・告別式は近親者で終えており、9月以降に四季と浅利事務所との合同でお別れの会を行う。喪主は妻で女優の野村玲子(のむら・りょうこ、本名=浅利玲子、あさり・りょうこ)さん。

 まるで人生の終幕の訪れを、自身で知っていたかのようなタイミングだった。亡くなった7月13日は劇団創立65周年の前日。晩年の浅利さんを献身的に支えた妻の野村ら、近親者にみとられる中、安らかに旅立った。

 昨年9月に悪性リンパ腫と診断。本人も病状を把握し、投薬治療で入退院を繰り返していた。今年4月、かなり痩せた状態だったが「李香蘭」を気力を振り絞って演出。開幕を確認すると劇場を後にした。関係者は「いつもは姿を見せて必ずお客さんの顔を確かめる人でしたが、相当つらかったのだろうと思う」と明かした。

 浅利さんは慶大在学中の1953年「劇団四季」を結成。海外ミュージカルに日本の様式美を取り入れて演出した「ジーザス・クライスト=スーパースター」で高評価を受けた。中でも「ライオンキング」は公演回数が1万回を超え国内演劇で最多記録を更新。「美女と野獣」「オペラ座の怪人」なども製作した。98年の長野冬季五輪では総合プロデューサーを務め注目された。

 浅利さんがいなければ、日本の演劇史は全く違っていた。大叔父が2代目市川左團次で歌舞伎など本物の芸に囲まれて育ったことも大きい。転機は83年。自前の劇場を持たない中、現在の東京都庁が立つ西新宿にテント型劇場を建て「キャッツ」の無期限ロングランをぶち上げた。当時を知る者は「失敗なら、生命保険など自分の全財産を劇団員に分けて解散する覚悟だった」。

 社会現象の大ヒットで役者の給料制も整い始めるが、ミュージカルの庶民浸透という壮大な夢に向かってチケットの低価格化を打ち出す。「会社員の初任給の20分の1」(同関係者)を目安にした。そして役者目当てでない、スターシステムを排除して規模を拡大。いつどこで見ても高いレベルの世界を提供した。

 多くが「浅利さん=ミュージカル」をイメージする。しかし、一貫して最も大事にしたのは「美しく日本語を伝える」こと。そのために母音を明瞭に発するなど独自のメソッドを考えたのは有名。9月に控える「アンドロマック」は、浅利さんが残した遺言のような、細かな演出プランに基づいて上演される。

 ◆浅利 慶太(あさり・けいた)1933年3月16日、東京都生まれ。慶大在学中の53年に最初の妻、藤野節子、日下武史らと劇団四季を創設。初期は仏近代劇を中心に上演。70年代に入り「ウエストサイド物語」など米ブロードウェーの話題作を上演。2014年に四季を離れるまで上演作のほぼ全作の演出、製作を手掛け劇団の社長・会長・芸術総監督を務めた。15年、浅利演出事務所を設立し演出活動を続けた。2人目の夫人は影万里江で3度の結婚歴。3人とも四季の女優だった。

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