野口五郎、西城秀樹さんへの弔辞は「朝の3時までかかって」書き上げたことを明かす

スポーツ報知
野口五郎

 歌手の野口五郎(62)が4日放送のニッポン放送「徳光和夫とくモリ!歌謡サタデー」(土曜・前5時)に出演。5月16日に急性心不全のため亡くなった歌手の西城秀樹(さいじょう・ひでき、本名・木本龍雄=きもと・たつお、享年63)さんの葬儀・告別式での弔辞を読み上げた際の秘話を明かした。

 野口は、西城さん、郷ひろみ(62)とともに「新御三家」と呼ばれ、私生活でも親友として交流。東京・青山葬儀所で営まれた西城さんの告別式で弔辞を読み、最後の別れを告げた。

 番組で、パーソナリティの徳光和夫アナウンサー(77)から「こんなに心打つ弔辞はなかったなと思うんですけど。大変でしたね、あの弔辞は」とねぎらわれた野口は「前日書いたんですけど。夜中というのか朝というのか3時までかかって」と明かした。

 その上で「そんなに時間がかかるもんだとは思わなくて、2時間ぐらいで書けるのかなと思っていたんですが、10時ぐらいから書き始めたんですけど、こんなに時間かかる…3時ぐらいにやっと終わったっていう感じでした」と振り返った。

 徳光アナから「それは思い出がありすぎて?」と聞かれると「そうです。どうまとめていいのか。メモしながらまとめて書いていたんですけど、どうまとめていいもんかって思って」と明かしていた。

 ◆野口五郎の弔辞全文

 秀樹、君が突然去ってしまったことを知ってから、何日が経(た)ったのだろうか。皆さんに、気持ちの整理が付くまで少し時間をください。そうお願いしたのだろうけど、どうやってこの現実を受け止めていいのか、いまだに君の言葉、いろいろなことを思い出して泣いてばかりいる。

 秀樹との46年間は、簡単に語りきれるものではありません。本当に、君への弔辞を読むなんて考えてもみなかった。ある時は兄のようでもあり、ある時は弟のようでもあり、親友でもあり、ライバルでもあり、いつも怒るのは僕で、君は怒ることもなく、全部受け止めてくれて。今思うと、僕と君の違いは、心の大きさが違うよね。つくづくそう思うよ。

 いつも僕が言うことを、大事に大事に聞いてくれて、何でそんなに信用してくれていたの?

 訃報を聞いて、君の家に向かう途中で、僕は突然思い出して妻に言った。

 秀樹の歌で「ブーメランストリート」(1977年)って曲があって、ブーメランだから、きっとあなたは戻ってくるだろうって歌詞だけど、でも戻ってこなかった人をアンサーソングとして「ブーメランストレート」ってどうって(僕が)言った。「それいいね」って秀樹、大笑いして。そうしたら彼、本当に「ブーメランストレート」(1992年)っていう曲を出してしまったんだよ。

 君の家に着き、君に手を合わせ、奥さんの美紀さんと話し始めたら、秀樹の曲をかけ続けていたディスプレーから突然、「ブーメランストレート」が流れてきました。数百曲もある君の曲の中で、「五郎、来てくれたね」。君は、僕だけに分かる合図を送ってくれたのだから。そう思ったよ。

 30年ほど前に、君は「チャリティーコンサートをするんだけど、その時の曲を作ってほしい」と、突然言い出した。僕は、人の曲を作らないって知っているだろ。

 「だから、作って」

 秀樹、「だから、作って」は日本語、変だから。

 「最後にみんなで歌う曲を作ってほしいんだ」

 秀樹、悪いけど無理だな。

 「分かっている。一応、締め切りはいついつだから」

 それできないからねって別れたのに、締め切りギリギリにパジャマを着て、譜面とデモ音源を君の家に届けた。まるで僕が作ってくるのが当たり前のように、玄関先で「ありがとね!」と、君は笑顔でひと言。完全に見透かされているよね。

 今年になってから、その曲がシングルカットされているのを知って。僕はそれまで知らなかったんだけど。君のマネジャーにお願いして、音源をもらって、CDの君の声だけ取り出して、今年2月の僕のコンサートでデュエットした。なぜ、今年だったんだろうって不思議でならない。コンサートを見に来て下さった君のファンの方も喜んでくださったって、奥さんが言っていました。

 デビューして、アイドルと呼ばれるようになった僕らは、「その席を後輩に譲らないと」「次の高みを目指さなければ」と考えていた。その方向が僕らは一緒だった。同じ方向を目指していた。秀樹は決してアクション歌手ではない。本物のラブソングを届ける歌手を目指していたことを、僕は知っている。

 1993年。初めての(NHK総合)「ふたりのビッグショー」で共演。一緒に歌った「UNCHAIN MY HEART」。安定のメロディー。ハーモニーの高いパートは僕で、最後に格好良く決めるのが秀樹。でも、僕はそんな秀樹が大好きだった。本当に格好いいと思っていた。

 お互い独身時代が長かったから、何でも話すようになったし、ゴルフも何度も行った。君が車で迎えに着てくれて、僕がおにぎりとみそ汁を用意して、「夫婦か!」って言い合って。僕が「秀樹、結婚するから」って言った時の驚いた顔を忘れない。

 僕が披露宴をした時に、「おめでとう」と君に握手を求められた瞬間、僕にはすぐに分かったよ。こいつ、結婚する。案の定、5か月後に美紀さんと結婚した。

 秋も深まったある日、妻が「もしかして子供ができたかも」と言い出し、驚いた僕は「病院に行って検査してもらおう」と話した。そんな時、君から突然の電話。「俺、まだ誰にも言ってないんだけど、子供ができた」。生まれてみれば、同じ女の子で、君の家が6月3日、僕の家が6月5日。マジか。当然、娘たちの初節句、ひな祭りも一緒に祝ったよね。

 3年前、秀樹の還暦パーティーに出て、サプライズでケーキを持って、ステージに出させていただいた時のこと。秀樹のビックリした顔、今でも忘れられません。遡ること44年前、1974年、僕が「甘い生活」でレコード大賞を取れるという下馬評だったけど、君の「傷だらけのローラ」が受賞。もちろん、君は欲しかった賞だし、当然うれしかったと思う。でも、君は僕の前では喜んだりしなかった。僕を気遣ったんだと思う。それから2年後、2人で受賞した。その時は握手して、2人で抱き合った。

 そして40年後、還暦パーティーで、僕が抱いていいかって言うと、「何だよう」って言われたけど、僕はそんな君を抱きしめた。その時、君は、僕のことを必死に抱きしめ返そうとした。その瞬間に、君の体の全体重が僕に掛かった。それは、僕にしか分からない。

 心の中で「秀樹、大丈夫だよ。僕は大丈夫だからね」、そう思った。それと同時に僕の全身が震えた。こんなギリギリで立っていたのか…。こんな状態で、ファンの皆さんの前に立っていたのか…。そこまでして立とうとしていたのか。なんてすごいヤツだ。彼の大きさに驚いて、一瞬頭が真っ白になって、彼のコンサートなのに、サプライズで来ている僕が「西城秀樹です」って秀樹のファンの皆さんに彼を紹介してしまった。

 秀樹ほど「天真爛漫(らんまん)」という言葉がピッタリな人には、僕はこれまでに会ったことがない。何事にも真っすぐで、前向きで、おおらかで、出会う人全てを魅了する優しさと、全てを受け入れる潔さとたくましさ、そんな君を慕う後輩がどれだけいたか。僕は羨ましかった。

 僕も、ひろみも、秀樹の代わりにはならないけど、まだしばらくは頑張って歌うからね。オマエの分も、歌い続けるからね。君を慕ってくれた後輩たちと共に、僕らが秀樹の素晴らしさを語っていこうと思います。何よりも君を愛し、支えてくれたファンと共に。

 秀樹…、お疲れさま。そして、ありがとう。もう、リハビリしなくていいからね。もう頑張らなくていいから。君のかわいい子供たち、家族をいつも見守ってあげてほしい。オマエの思うラブソングを、天国で極めてくれ。秀樹、お疲れさま。そして、ありがとう。

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