樹木希林さん、貫いた“独特”夫婦45年 仕事選びの基準は「順番とギャラ」

スポーツ報知
報知映画賞表彰式。史上初の“親子”同時受賞を果たした樹木希林さんと本木雅弘(15年2月)

 個性派女優として知られた樹木希林(きき・きりん、本名・内田啓子=うちだ・けいこ)さんが15日午前2時45分に都内の自宅で死去した。関係者が16日、明らかにした。75歳だった。死因の詳細は明らかになっていないが、2012年に「全身がん」であると告白。今年8月には転倒して左大腿(だいたい)骨を骨折し、一時危篤状態になったことを義理の息子で俳優の本木雅弘(52)が公表していた。通夜はこの日、近親者のみで営まれ、葬儀は30日に港区内で執り行われる予定だ。

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 事務所も構えず、マネジャーもスタイリストも付かない。樹木さんは自宅の電話に残る留守電かファクスで仕事の依頼を聞いた。選ぶ基準は、脚本でも監督でも共演者でもない。「話をくれた順番とギャラだけです」。プロフェッショナルとは、そういうものであるという信念があった。

 晩年まで、車の運転も新幹線切符の購入も全部自分でやった。「普通の人がやっていることを自分でもやることで、何か発見があるものです」。日常を生きることが女優としての自分につながると知っていた。

 代表作のひとつと言ってもいいフジカラーのCM。ある年のコピー案「美しい人はより美しく、美しくない人も美しく写ります」の「美しくない人」という単語が一般人の目線として気になった。自ら考えた代案「そうでない方はそれなりに」が採用され、後にシリーズの最高傑作とも言われた。

 高齢になって病と闘うようになったが、女優になったのも体のアクシデントが契機だった。薬学部を目指して大学受験に臨むはずだった高3の冬、北海道・夕張でスキーに挑戦したが、転倒して脚を派手に骨折。入院生活を強いられ、受験はおろか卒業式にも出席できず。級友との疎外感を抱いた頃、新聞の片隅に「文学座研究生募集」の文字を発見した。

 美男美女が集った試験で、結果はなんと合格。「人のセリフを聞く芝居ができる」と評されて合点がいった。5歳の頃、自宅の2階から1階に転落した。奇跡的に無事だったが、恐怖心から毎晩オネショをするようになった。恥ずかしくて友人らと距離を置き、遠くから会話を聞くのが習慣に。気付けば耳が良くなっていた。

 ずっと自分を「弱い存在」と思っていたから、強い人に惹(ひ)かれた。夫・内田裕也のことを、心から愛していた。1981年、離婚無効の訴訟では、裁判官に「あんなに嫌がっているんだから別れてあげなさいよ」と言われても譲らず、勝訴。離婚は無効になった。

 04年に乳がんを患ってから、内田は優しくなった。連絡を取る回数は増えた。翌夏には「祇園祭に行こうよ」と誘い、京都の街を一緒に歩いた。「私は網膜剥離なんだから」と少女のように腕組みをした。

 ◆樹木希林さんの主な出演作◆

 【テレビドラマ】

 「七人の孫」「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「ムー一族」「夢千代日記」「はね駒」「味いちもんめ」

 【映画】

 「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~」「歩いても 歩いても」「悪人」「わが母の記」「そして父になる」「あん」「海よりもまだ深く」「万引き家族」

 【テレビCM】

 「フジカラープリント」「ピップエレキバン」

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